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【若い世代でさえ】
その国の選挙において、どの政党・候補者に投票したのか。そこから、人びとの考え・意識・姿勢が見えてきます。 先月の衆議院総選挙は、戦後初となる単独政党による3分の2以上の議席を、自民党が獲得。昨年終盤に安倍元首相の極右路線を引き継ぐ高市首相になったことで、他の保守系政党に近年流れていた有権者たちが、自民に戻ってきたようです。 また選挙直前に、最大のリベラル系政党である立憲民主党が保守系の公明党と合併して、モデレート系の中道改革連合になりました。これにより、リベラル系は最大勢力を失ってしまいました。 これらの結果、得票率は、
引き続き、更なる保守化が進んでいることが分かります。 東京都においては、
比例東京ブロックの得票率は、
ちなみに、前回のアメリカ大統領選(2024年11月)は、
アメリカと比較すると、日本および東京ですら、圧倒的に保守であることが分かります。[詳しくは#123] そして、日本とアメリカのもう一つの大きな違いは、若い人たちの傾向です。以下は「支持政党あり」と答えた人たちの割合。 日本(今回衆議院選直後のNHK調査):
米国(2024年4月Pew Research Center調査):
日本は、どの年齢層においても圧倒的な保守傾向にあり、一番若い世代が最も保守なのです(39歳までが89ポイント差で保守系)。 アメリカは真逆で、若い世代である程リベラルな傾向にあり、一番若い世代が最もリベラルなのです(29歳までが32ポイント差でリベラル系)。 一方で、アメリカでは50代を境に、リベラル系から保守系への逆転が見られます。これは、1960年代の公民権運動 [詳しくは#7]を境にインクルーシブ教育が進みだしたことを鑑みると、それ以前の教育を受けた人たちは保守、それ以降はリベラルな傾向だと納得がいきます。 他方、日本は「国が教えたいことを、国が教えたいように」教育するシステムを保守して、記憶力ベースの教育 [詳しくは#125] を続けています。インクルーシブ教育・環境が整えられず [詳しくは前回]、そこに戦争の悲惨な記憶が薄れるにつれて、人びとの考え・意識・姿勢が戦前のように戻ってきているのでしょう。[詳しくは#4]・[#65] 次回は、この大問題の解決策を提案してみます。 前回を読む:戦後80年、日本の大問題(7)【集まらない原因2】 同じテーマを読む:ある視点 【都市部でさえ】
7月の参議院選挙は、42.2ポイント差もあけて保守系が当選。そして、軍国主義を彷彿とさせる言動が目立つ参政党が、得票数で自民に次ぐ2位につけました。[詳しくは前回] この保守化は、今に始まったわけではありません。なぜ、多くの日本国民が、それら保守系政党を選び続けるのでしょう。 その手掛かりとなるデータが、都市部にあります。 都市部が重要な指標になるのは、日本のみならず、世界中の傾向として、人・教育・仕事・多様性など、何においても都市部に集中しがちだから。なかでも日本は、いよいよ東京・一極集中に拍車がかかっている。 その東京都における、参議院選挙の当選者計7名。その7名を取り上げてみた得票率は、
何と、東京都では50.3ポイント差もあけて、保守系が当選。これは、日本全国をしのぐ保守傾向を示しています。 ここに、アメリカと真逆の構図が見て取れます。 前回も紹介した通り、同じ保守系の当選でも、前回のアメリカ大統領選は僅か1.5ポイント差。 しかも、いわゆる都会的なイメージをもつ州であればある程、リベラルな人たちが多い。他方、これらの州内といえども、アメリカは広大な土地があります。その大部分は地方・田舎の雰囲気があり、都市部は面積としては限られる。 そのことからも、同じ州内であっても、都市部では人口密度が高く、多様性にあふれて、仕事・教育面においても充実し、リベラルな人たちが多い一方で、地方・田舎では正反対というのが、アメリカの特徴といえるでしょう。 都会的なイメージをもつ州とその都市部における得票率も、それを裏付けます。 ーーーーーーーーーー ニューヨーク州:トランプ44% vsハリス56%→12ポイント差でリベラル系当選
カリフォルニア州:トランプ38% vsハリス58%→20ポイント差でリベラル系当選
マサチューセッツ州:トランプ36% vsハリス62%→26ポイント差でリベラル系当選
米国全体(1.5ポイント差で保守系が当選)とは違い、これらの州ではリベラル系が当選しています。しかも、都市部は圧倒的にリベラルであることを示しています。 ーーーーーーーーーー さらに、州全体で保守系が当選した、その多くがいわゆる田舎的なイメージをもつ州であっても、この都市部の傾向は見られます。これらの州にある大都市の数は少ないですが、その代表格がこちら。 ルイジアナ州:トランプ60% vsハリス38%→22ポイント差で保守系当選
テキサス州:トランプ56% vsハリス42%→14ポイント差で保守系当選
ジョージア州:トランプ51% vsハリス49%→2ポイント差で保守系当選
日本全国(42.2ポイント差で保守系が当選)、ましてや東京都(50.3ポイント差で保守系が当選)とはまったく逆のリベラルな構図がアメリカの都市部にはあるのです。 ーーーーーーーーーー ちなみに、米国で最も保守的な州は、すべて地方・田舎にあります。 ワイオミング州: 46ポイント差で保守系当選 ウェストバージニア州:42ポイント差で保守系当選 アイダホ州: 37ポイント差で保守系当選 (東京都: 50.3ポイント差で保守系当選 ) それでも、東京都ほどの差をあけて、保守系が当選したアメリカの州はありません。 世界的大都市と呼ばれる東京が、なぜ、これ程までに保守的なのでしょう。 次回は、そこをさらに深めたいと思います。 続きを読む:戦後80年、日本の大問題(3)【教育と多様性】 前回を読む:戦後80年、日本の大問題(1)【人びとの選択】 同じテーマを読む:ある視点 【日米選挙から見る】
昨年11月のアメリカ大統領選は、性的暴行訴訟において有罪判決が確定したレイプ犯、ドナルド・トランプが当選。 「性犯罪を許してはならない。だから移民・難民を閉め出し、追放する」と吹聴するトランプやその支持者たち。けれども、本気で「性犯罪を許してはならない」と考えるのなら、先ずは「レイプ犯に投票しないこと」でしょう。 また、女性やLGBTQを含め、マジョリティ・アイデンティティの外側で生きる人たちへ対して、あらゆる差別的言動を繰り返したり、暴力を助長するトランプとその支持者たち。「性犯罪を許してはならない」とは掛け声ばかりで、その言葉だけを利用した誠意のなさが透けて見えるのです。 いまだに女性大統領の選出を拒んだり、大人としては幼稚なほど有害な「男らしさ」を振りかざしたり、「女性の体のことは男性が決める!」と言い張る保守的な人たちがアメリカに多くいる事実が、浮き彫りになった選挙。男女同権など、人権意識を広めようと努力するリベラルな人たちが、あと一歩及ばなかったことがとても残念です。 とはいえ、希望が見えない訳ではありません。 実際に、得票率は
これらを鑑みると、アメリカにおける男女同権の意識は、パリティー(平等)に持ってゆくかのように、リベラル系(民主党)と保守系(共和党)との間で振り子は振れて、行ったり来たりしながらイクイリブリアム(equilibrium)に近づく様子が伺えます。 他方、昨年10月。国連の女性差別撤廃委員会は、日本について、夫婦同姓を義務付ける民法を見直し、選択的夫婦別姓を導入するよう勧告。同様の勧告は4回目ですが「差別的な条項に対し、何の行動も取られていない」と指摘。 また、男系男子に皇位継承を限る皇室典範の改正、妊娠中絶について女性に配偶者の同意を求める規定の撤廃を勧告。さらには、第二次世界大戦における慰安婦問題 [詳しくは#21] について、被害者の権利を保証する誠意ある努力を求めました。 それらに対抗するように、先月、自民党政権は国連への拠出金の使途から、同委員会を除外することを決定。差別という過ちを認めて男女同権に向けて前進するどころか、浅はかなトランプ手法を真似るかのように、報復にでたのです。 自民党は1955年に立党して以来、約5年間を除き、日本の政権を担っています。昨年10月の衆議院総選挙において、自民はいつもに比べれば大敗したと言われてはいるものの、それでも第1党であることに変わりなく、政権を担い続けている。 そして、得票率は
実に、25ポイント差もあけて、保守系が当選しているのです。 これらを鑑みると、アメリカとは違い、男女同権の振り子は依然として振れる兆しを示さず、保守系に留まったまま。 そこに、希望の見え難さがあるのです。 その国の選挙において、どの政党・候補者に投票したのか。そこから、国民の様子が見て取れます。すなわち、人びとの考え・意識・姿勢です。 もちろん「男女同権だけが選挙の争点ではない」というのはもっともです。けれども、約70年間にも渡り、その争点が置き去りにされていることから、人びとの本心が透けて見えるのです。 続きを読む:男女同権・平等の真実(6)【行動が前進を生む】 前回を読む:男女同権・平等の真実(4)【一人ひとりを大切に】 全シリーズ:男女同権・平等の真実(1)~(6) [1] [2] [3] [4] [5] [6] 同じテーマを読む:ある視点 人生のあらゆる事柄について、自分の頭でしっかりと考えることは、充実して生きてゆくうえで欠かせないでしょう。
「なぜそうなったのか」の分析や、「なぜそうしたのか」、「どのように考えたのか」、そして「どうしてそう考えたのか」などを、ロジカルに、順序だてて掘り下げること。 けれども、そのようにして一度ある結論にたどり着いたら、その事柄についてもう二度と考える必要はないのでしょうか。 もちろん、そんなことはありません。それだと、自分は成長しないということになってしまいます。 自分自身が成長する人間であるのなら、例えば1年・3年・5年前に結論を出したある事柄について、もう一度深く考えてみると、違った結論にたどり着くこともある。それは、今まで見えなかった景色が、成長とともに見えるようになることがあるからです。 「過去の自分」が考えぬいて、ある結論にたどり着いた事柄であっても、その結論が「現在の自分」からみて本当に妥当なのか。その事柄が、再度呼び起こされる場面に出会う度に、いま一度、考えを深めてみる。 人生は、そのように「考えを深める」チャンスの連続です。そして「考えを深め続ける」ことは、成功の秘訣や失敗の理由を学ぶうえで、さらには成長し続けるために、とても大切です。 「けど、それって考え過ぎにならないの?」と、ふと疑問に思う人もいるでしょう。 そこで、「考え過ぎ」とは何なのかについても、考えてみる。 例えば、ポジティブな方向性に向けて考えを深めることはとても大切なので、その考えに基づく行動を起こしていれば「考え過ぎ」とは言えません。ここでいう「ポジティブな方向性」とは、「すべての生命にとって世界をより良くする方向性」のことです。 けれども、例えポジティブな方向性であっても、その考えに基づく行動が起こせない、あるいは、足がすくんで身動きが取れない場合などは、「考え過ぎ」と言えるでしょう。それは、せっかくポジティブな方向性に向けて考えられているのに、頭の中だけでの思考に留まり、それを行動に移せず、あと一歩のところでもったいない状態にあるからです。 そのような時は、その時点においてベストだと思う考えに基づき、先ずは一歩前へ足を踏み出してみる。行動を起こすと、そこから、また違った景色が広がります。 他方で、ネガティブな方向性に向けて考え続けることは、まさに「考え過ぎ」なので、今すぐにでもやめた方がいい。なぜなら、その考えをこれ以上続けてみても「すべての生命にとって世界をより良くする方向性」ではないので、とてもシンプルに、自分にとっても他者にとっても不毛だからです。 過去にも、せっかく優れた洞察力に恵まれた人たちが「考え過ぎ」に囚われてしまい、最悪の場合、不幸にも自らの命を絶たざるを得ないと、それ以外の道がないと思い込んでしまう。その結果、そもそも世界をより良くしたいがための思考だったはずなのに、それを永遠に行動に移せなくしてしまった無念な実例は、悔やみきれないほど数多く、悲しくも本末転倒です。 また、今も昔も世の中で散見されるのは、例えポジティブな方向性の考えを持つ人がいても、とにかく現状維持を保ちたい他の人たちが「それは考え過ぎだよ!」という言葉を用いて、そのポジティブな考えに基づいた行動・変化を止めようとすること。これは言葉の悪用といえるでしょう。 人は、何歳であっても、また、何歳になろうとも、みんな成長しなければならない。それこそ、子どもから老人まで、皆です。すべての生命のより良い明日を、共に築いてゆくために、成長し続けなければならない。これは世界の平和のため、私たち一人ひとりの責任です。 そうであるならば、ポジティブな方向性に向けて「考えを深め続ける」ことはとても大切です。そして、それを行動に移してゆけば、「考え過ぎ」に陥ることはありません。 同じテーマを読む:ある視点 【安全で礼儀正しい】
世界中で、多くの人たちが羨む日本の特徴ナンバー1は、何といっても「安全」でしょう。 よく聞く理由は「夜中にひとりで街を出歩いても安全!」なこと。日本では当たり前に感じられても、世界の人たちからすれば、とても新鮮な驚きなのです。もちろん残念なことに、日本においても卑劣な犯罪は日々起こりますが、一般論として、他の国・地域と比べて、やはり日本は治安が良い。 なかでも大きく称賛に値するのは、厳しい銃規制でしょう。市民による銃の所持はほぼ禁止されていて、その取り締まりはとても優れたもの。銃が一般に流通することはほぼなく、ほとんどの人たちが銃の危険に怯えることなく生活ができる。これは、本当に素晴らしいことです。 どれほど素晴らしいことなのかは、銃の所持が憲法により広く認められているアメリカと比較すれば、一目瞭然でしょう。 銃乱射事件などが後を絶たず、子どもを学校に通わせるにも銃による殺人リスクを覚悟しなければならない程のアメリカ。そのような愚かしさをよそに、銃所持があたかもカッコいいのような浅はかなマッチョ・カルチャーが依然としてはびこり、多くの人びとが悲しくも命を失っています。命を落とさないまでも、障害が残ったり、家族・友人の悲報に接したり、恐怖に怯える日々の心的ストレスなど、銃の被害は計り知れません [詳しくは#68]。 世界が羨む「安全」に加えて、日本の多くの人たちが礼儀正しいことも、世界の人たちからすれば嬉しい驚きです。これは、あまり羨ましくない「型にハマった」日本の教育システムが、もたらす数少ないプラス面とも言えるでしょう。 これらのような素晴らしい特徴をもつ日本を、多くの人たちが「優しい国」だと称賛します。 けれども、本当に日本は「優しい国」なのでしょうか。 この疑問を呈する理由は、日本の「安全」や「礼儀正しさ」は、世界中で必要としている人たちを拒絶することにより、保っていると思われるからです。 実際、日本において今も昔もよく耳にするのは、「外国人がたくさん住みついて治安が悪くなった」など、差別的な感情。あるいは「外国人が多く住んでる地域は怖いから、近づかない方が無難」などの排他的感情も、まま聞きます。ここでいわれる「外国人」とは、華やかな見た目の外資系企業でバリバリ働く比較的裕福な生活をしている人たちというよりは、留学生・労働者として日本に滞在している、必ずしも経済的に恵まれているとは言い難い人たちのことを念頭においているようです。 他方で、欧米の先進国と呼ばれる国々では、多様性を歓迎すべく多くの移民の人たちを受け入れています。また、戦争・暴力・紛争・迫害などの危険にさらされ、自国を追われる身になってしまった難民の人たちを多く受け入れています。 移民の受け入れ (カッコ内は人口の割合): アメリカ 約5,063万人(15%) ドイツ 1,576万人(16%) イギリス 936万人(14%) フランス 852万人(14%) 日本 277万人 (2%) 難民の受け入れ: ドイツ 259万人 フランス 66万人 イギリス 45万人 アメリカ 41万人 日本 2万人 ウクライナ避難民の受け入れ: ポーランド 1,990万人 ドイツ 117万人 アメリカ 54万人 イギリス 24万人 フランス 7万人 日本 2千人(誤字ではなく、桁が違います) もちろん、文化・習慣が異なった人たちが、同じ場所をシェアして生活をするのは、とても難しいこと。「普通はこうするよね」などといった自分たちの常識が、相手にとってみればまったく常識でないことは、むしろ日常茶飯事です。 多様性を受け入れ、多彩な背景の人たちと共に生活をすると、時にはとっ散らかったり、またある時には面倒なドタバタ劇が繰り広げられたりする。このような複雑で難解なことを大きな器をもって受け入れるには、「安全」や「礼儀正しさ」をある程度妥協せざるを得なくなるでしょう。 次回は、ここの考察をさらに深めたいと思います。 続きを読む:優しい国(2)【優しい人】 同じテーマを読む:ある視点 【覚悟を決める】
コントローラブルをどうするのか。それは、私たち自身で決めて行動できる。 気をそらして、何となくやり過ごすこともできる。あるいは、色々な理由を述べては、やらないことも。 多くの場合「やらない理由」をあげれば、それこそキリがありません。「だって、他にやらなくちゃいけないことが、山ほどある」のは多忙な現代社会において常ですし、そうやって流されるのは便利だから。 けれども、不便かも知れませんが、大変になるかも知れないけれど、覚悟を決めて「今ここから、やってみる」のか。 覚悟を決めると、人生は「今」の連続であることに、気づかされます。「今」が山ほどある。むしろ「今」だらけとも言えるでしょう。 「もうちょっと、仕事が片付いてから」とか、「もう少し、生活が安定してから」など。パーフェクトなタイミングを求め続けるがあまり、みるみる「今」が過ぎ去ってしまうのは、ありがちです。 そうならないように、今、出来ることからやってみる。 もちろん、上手くいくことばかりではありません。善意の働きかけをしてみても、場がしらけたり、「空気が読めない」とか言われたりすることもあるでしょう。もしかしたら、「見たくない自分」を突き付けられる脅威を感じてしまう人がいたなら、うとまれるかも知れません。 あるいは、後足で砂をかけられるような、苦い想いをするかも知れない。思ったようにいかない時は、悲しい気持ちにもなる。 けれども、それらを受けとめて、本当に大切なことを見失わず、考えを深め続け、そして、しっかりと腹をくくる。できる限りすべてを見て、できる限りすべてを受けとめる。 これが「覚悟を決める」ということです。 このように覚悟を決めてみると、私たちには「やれることが結構ある」のだと、気づかされます。そう、自分自身で決めて行動できるコントローラブルは、この世の中に結構ある。 自分の人生を、どう生きたいのか。 前向きに、建設的に生きたい。充実した「これから」にしたい。 今ここから、やってみる。 前回を読む:今ここから、やってみる(2)【コントローラブル】 全シリーズ:今ここから、やってみる(1)~(3) [1] [2] [3] 同じテーマを読む:ある視点 【コントローラブル】
アンコントローラブル(Uncontrollable) = 自分自身ではどうにもできない領域。 コントローラブル(Controllable) = 自分自身で決めて行動できる領域。 例えば「〇〇大学に合格する」は、自分で自分自身の合否を決められないので、アンコントローラブルです。一方で「そのためには、自分に出来ることは全てやりきる」は、自分自身で決めて行動できることなので、コントローラブルです。 誤解されがちですが、コントローラブルとは「結果」についてではありません。もしかしたら、目先の結果はでないかも知れない。〇〇大学は不合格になるかも知れない。 それでも、中長期的な成果を目指して、自分が「今ここから、どうするのか」については、コントローラブルだということです。この場合の中長期的な成果とは、いずれは〇〇大学に合格する、あるいは、より広い視野において充実した人生を生きれるよう、考えて努力を続けられる人間に成長することかも知れません。 同じように、このブログのテーマである「すべての生命にとって世界をより良くする」は、残念なことにアンコントローラブルです。それは、自分ひとりで成し遂げられるような規模ではなく、また、ひとりの人生の期間をもってして測れることではないからです。 それでも、「そこに向けて前進する、ひとりでも多くの困っている人たちへ自分にできるサポートをする」ことは、コントローラブルです。これは、自分自身で決めて行動できる。 前回述べたように、戦争地域で生まれてしまうことは、アンコントローラブルです。 それでも、戦争を主導する権力者の仕返しに怯まず、良くないことは良くないと、それが権力者に対してであっても、周囲の目が気になろうとも、勇気と信念を持ち反戦を訴え続けることは、コントローラブルです。 また、機能不全の家庭で育ってしまったり、暴力・虐待を受けてしまったり。これらもアンコントローラブルです。 それでも、教育をしっかりと身につけ、独り立ちできるよう努力し、人生を幸せに歩めるパートナーを選択し、負の連鎖を断ち切るモラルと精神力を高めることは、コントローラブルです。 そして、差別をされる環境を余儀なくされてしまうことも、アンコントローラブルです。 それでも、考える力を磨き、心の優しさと強さを身につけ、すべての人たちにとってフェアな社会を築くために行動することは、コントローラブルです。 これらのように、コントローラブルをどうするのか。それは、私たち自身で決めて行動できるのです。 続きを読む:今ここから、やってみる(3)【覚悟を決める】 前回を読む:今ここから、やってみる(1)【本当に大切なのは】 全シリーズ:今ここから、やってみる(1)~(3) [1] [2] [3] 同じテーマを読む:ある視点 【本当に大切なのは】
進学、就職、結婚。 仕事、ボランティア活動、友人関係、家族関係。 様々な人生の局面において、私たちは「上手くいった」とか「思ったようにはいかなかった」とか。自己評価をしては、達成感に心躍らせたり、失敗を悔んだりします。 その評価は、ほとんどが過去の言動に関してです。そして、過去のことを振り返る度に、ついしがちなのが、言い訳ではないでしょうか。 ある意味、誰でもすることでしょう。 だからといって、それをし続けるのかどうかは、私たち次第でもあります。 過去の言動を評価するにあたり、まず最初は「なぜそうなったのか」の分析から入ります。順序だてて「なぜそうしたのか」、「どのように考えたのか」、そして「どうしてそう考えたのか」を、しっかりと振り返る。成功の秘訣や失敗の理由を学ぶうえで、とても大切です。 けれども、そこに留まり過ぎると、次第に私たちは、「俺ってすごい」といった優越感に心酔したり、「分かってくれ、どうしようもなかったんだ」と、言い訳をだらだらと続ける傾向がある。そこに留まってしまうと、もはや建設的(Constructive)ではありません。 そうであるのならば、過去の自己評価は「学び」に役立てる範囲におさめて、その先は、本当に大切なことに照準を合わせる。 本当に大切なのは「その経験を踏まえて、今ここから、どうするのか」。 そう、「いままで」ではなく、「これから」のことです。 それは、「私たちの人生は、私たち自身が造り上げてゆくもの」だからです。 なかには、例えば、どの親のもとに生まれてくるのか、どのような境遇で育つのかなど、自分では選べないこと、どうしようもないこともあります。悲しくも、戦争地域で生まれてしまったり、機能不全の家庭で育ってしまったり、暴力・虐待を受けてしまったり、差別をされる環境を余儀なくされてしまったり、など。それを、アンコントローラブル(Uncontrollable) = 自分自身ではどうにもできない領域、といいます。 けれども、生まれながらの状況を抱えながらも、そして引きづりつつも、自分自身で変えることができる部分はあります。特に、恵まれた境遇にあればあるほど、その部分は広がりを見せます。それを、コントローラブル(Controllable) = 自分自身で決めて行動できる領域、といいます。 次回は、これらの領域を踏まえて、「今ここから」の考察を深めたいと思います。 続きを読む:今ここから、やってみる(2)【コントローラブル】 全シリーズ:今ここから、やってみる(1)~(3) [1] [2] [3] 同じテーマを読む:ある視点 【米国議会】
今月3日に投開票が実施されたアメリカ総選挙において、バイデンが700万票超の差をつけて大統領選を制しました。今回は、最も多くの票を得た候補者が当選するという、民主主義の大原則に則った結果となり、誰の投票もないがしろにされなかったことに、とても安心しました。 けれども、大統領選の勝敗を決める「選挙人による投票数」は、ほとんどの州で総取りをする仕組みになっているため、一歩間違えれば、またもや、最多得票の候補者が落選することになりかねない、危うい状況でした。 この歪んだ仕組みを変えるには、憲法の改正が必要です。それには、米国議会における衆議院 (House of Representatives) で3分の2、上院 (Senate) で3分の2、そして、50州のうち4分の3に相当する各38州で、承認可決しなければなりません。 現実的に、これは、可能なのでしょうか。 その確度を探るために、まず重要なのは、衆議院と上院における議員数の割り当て方式を理解することです。衆議院は人口比例により、各州に議員数が割り当てられていますが、上院は人口に関係なく、各州2名づつ。この、人口に比例しない上院議員数の割り当てが、「一人一票」の民主主義を阻んでいるのですが、ここを、より具体的に説明します。 例えば、米国最大の人口を誇るカリフォルニア州は人口3952万人、最小のワイオミング州は58万人。カリフォルニアには、ワイオミングの約68倍の人びとが住んでいるので、衆議院は、この人口の違いをおおむね反映して、カリフォルニア53名・ワイオミング1名の議員数を割り当てています。各州に割り当てられた議員数を、人口に比例することにより、「一人一票」の民主主義を実現するのです。 ところが、上院議員は、それぞれの州で2名づつですので、各州に割り当てられた議員数は、人口に比例しません。これは、230年以上も前に定められた憲法第1条により、決められてしまっている。 そうすると、カリフォルニアの上院議員1名は1976万の人たちを代表する声なのに、29万の人たちを代表する声であるワイオミングの上院議員1名と、同じ重さになってしまいます。実に、68倍の「一票の格差」。それは、カリフォルニアの68票と、ワイオミングの1票が、上院では同じ重さであるという歪み。一人ひとりの1票が、その人の「声」であることを誠実に受けとめ、誰の投票もないがしろにされないとは、とても言えない憲法の条文です。 このような状況のなか、憲法の改正に必要である上院における3分の2の承認可決は、「一人一票」の民主主義から大きく乖離していると言わざるを得ない。 それは、大統領選の勝敗を決める「選挙人による投票数」や、そもそも人口に比例しない上院議員の割り当てなど、これら歪んだ仕組み自体を変えることが、民主主義の大原則である最多得票によって、決められなくなっているということ。 現に、複数の大手調査機関による20年間にわたる調査において、約60%の米国市民が、大統領選挙は「選挙人による投票数」ではなく、「米国市民による投票数」によって勝敗を決めることに、賛成していることが分かっています。それでも、人口に比例しない上院議員の割り当てによって、それが実現できない。 実際に、1969年には、大統領選挙を「米国市民による投票数」によって決める憲法改正案が、衆議院において339対70の圧倒的多数により可決されました。けれども、比較的人口の少ない地方の州の上院議員数名の賛同が得られず、上院を通過することはなかったのです。 また、各州ごとで、人口に大きな違いがあるなか、4分の3に相当する各38州における承認可決が憲法改正の必須要件であることも、やはり人口に比例しないことから、「一人一票」の民主主義から大きく乖離していると言わざるを得ない。 これらのことから、米国市民の大多数が政治的な歪みの解消を望もうとも、憲法改正を実現する確度は、残念ながらとても低いのです。 地方の州に住む人たちが、「一人一票」より遥かに大きな影響力をもって、米国全体の政治的判断を左右する傾向を、憲法の条文が決めてしまっている。これこそが、アメリカが、民主主義のあるべき姿から乖離してしまっている主因なのです。 続きを読む:アメリカ総選挙の大問題(3)【銃規制】 前回を読む:アメリカ総選挙の大問題(1)【大統領選】 全シリーズ:アメリカ総選挙の大問題 (1)~(3) [1] [2] [3] 同じテーマを読む:ある視点 【大統領選】
9日後に総選挙を控えるアメリカは、世界における民主主義のお手本であるかのように、語られたりします。確かに、米国市民の政治への高い関心や、選挙に携わる熱心な活動など、とても素晴らしいところはあります。その一方で、230年以上も前に定められた憲法の条文により、その実態が、民主主義のあるべき姿から乖離してしまっているのも、事実です。 これらを踏まえ、アメリカ総選挙の主役である大統領選と米国議会(衆議院・上院)の仕組みを解説しながら、その問題点を通じて、米国の民主主義について考えてみます。 民主主義における大原則は、最も多くの票を得た候補者が当選すること。もちろん、票の数が正義を証明した訳でもなく、正しい訳でもない。誤っていることもままある。その時点において、単純に数で上回っていることに過ぎない。 けれども、民主主義が現在のところ一番良さそうなシステムである以上、最多得票の候補者が当選することに、一定の理解はできます。それにより、多数派が少数派を思いやり、責任をもって全ての人たちにとって、より良い社会をリードしてゆくことが望ましい姿です。 ところが、残念なことに米国の大統領選挙は、必ずしもこの民主主義の大原則に則っていません。それは、最も多くの票を得た候補者が、落選することがあるからです。 実際に、前回2016年の大統領選において、ヒラリー・クリントン6,585万票、ドナルド・トランプ6,298万票と、287万票も多く得票したヒラリーが落選し、トランプが当選しました。近年においては、2000年の大統領選にて、54万票も少なく得票したジョージ・ブッシュ(ジュニア)が当選しています。アメリカの歴史上、その他3回の大統領選において、同様のことが起こっています。 なぜ、このようなことが起こるのでしょう。 それは、1788年に制定された憲法第2条により、国全体における「米国市民による投票数」ではなく、各50州(および首都ワシントンDC)それぞれの住民による投票結果に基づいて、今度はその州の「選挙人」(Electors)が候補者に投票し、その「選挙人による投票数」の合計によって、大統領選の勝敗が決まってしまうからです。 何だか、不必要に入り組んでいるので、もう少し説明します。 例えば、自動車産業で知られるミシガン州は人口999万人、全米3億2820万人の約3%です。憲法で定められた「選挙人」の総数538人のうち、ミシガン州に割り当てられた「選挙人」は12名、約2%です。このように、「選挙人」はおおむね人口に比例して、各州に割り当てられています。 けれども、問題はここからです。 2016年のミシガン州における得票は、ヒラリー227万票、トランプ228万票。わずか0.2%の僅差で勝ったトランプですが、ミシガン州の「選挙人による投票」12票を総取りする仕組みになっているのです。この結果、大統領選の勝敗を決める「選挙人による投票数」は、ミシガン州ではトランプが12票、ヒラリーが0票になりました。 メイン州とネブラスカ州を除く各48州(および首都ワシントンDC)において、このような総取りをする仕組みになっていることから、国全体における「米国市民による投票数」では負けても、大統領選の勝敗を決める「選挙人による投票数」においては、勝ってしまうことがあるのです。 それは、2016年の場合、全米において287万人もの人たちの投票が、ないがしろにされてしまう仕組み。これでは、「一人一票」の民主主義とは言い難く、多くの国民の納得も得られないでしょう。このことから「トランプを正当な大統領とは認めない」という気持ちが、多くの国民に根付いてしまったのです。 アメリカ総選挙を控えて、一人ひとりの1票が、その人の「声」であることを誠実に受けとめ、誰の投票もないがしろにされないことを願います。 続きを読む:アメリカ総選挙の大問題(2)【米国議会】 全シリーズ:アメリカ総選挙の大問題 (1)~(3) [1] [2] [3] 同じテーマを読む:ある視点 |
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