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【自分自身が問われてる】
身をもって体験しなければ、トランプイズムの卑劣さが解らないという意味においては、今回のカナダの総選挙も良い事例でしょう。 先ず結果だけを見ると、カナダ版トランプイズムを推し進めた保守系が敗北したことから、4月の総選挙は良い結果でした。 けれども、内情は必ずしもそうとは言えません。 現に、アメリカでトランプが就任する1月までは、カナダの保守系がリベラル系を大差でリード、世論調査では30ポイント近くも広がっていました。その保守系のリーダーはミニトランプとまで呼ばれる程、自国優先・移民反対など、トランプイズムと似たような卑劣な政策を掲げていました。 けれども、一方的な関税や「アメリカの51番目の州にしてやる」など、いざトランプイズムの矛先がカナダへ向けられると、カナダ国民は、その卑劣を身をもって体験することに。 そうすると、自国のミニトランプがどれほど酷いことを外国人に対してすると言っているのかが、いよいよ実体験を通じて、現実味を帯びてきます。そして、みるみる情勢は逆転、その3か月後の総選挙でリベラル系が勝利。ミニトランプ自身が、自らの選挙区で落選するまでに一変しました。 卑劣な政策の被害を、身をもって体験すること。あるいは、体験とまではいかなくとも、現実味を帯びるだけで、これほどの変化をもたらす。結果オーライと言いたいところですが... 願わくば、そこまで待たなくとも、他者の苦しみを理解できる大人でありたい。 なぜなら、被害を受けてみて初めて解るのでは、遅すぎることもあるからです。 例えば、第二次世界大戦におけるナチスや軍国日本が巻き起こした、侵略戦争の大惨事。最終的に自らが被害を受けてみて解ったのでは、あまりに遅すぎた事例でしょう。 現在、そのナチスや軍国日本を彷彿とさせるファシズムがトランプイズムです。 そして、いよいよネオナチスをあからさまに支持したり、ナチス式敬礼をしたりと、トランプイズムは、ナチスのシンボルマークであるハーケンクロイツを、赤い帽子に置き換えたに過ぎません。 脅すことで、政権に対する批判の声をあげさせない。それはまるで、ロシアのプーチン政権のようであり、中国の習政権のようです。 共通するのは、このどれもがファシズムであるということ。 「民主主義が問題だ」とか、「社会主義・共産主義が問題だ」とか、よく耳にしますが、そうではありません。もちろん、それぞれに課題はあります。 けれども、本当に深刻な問題は、どの社会システムであっても「強制的な権力により従わせようとするファシズム」に乗っ取られてしまうこと。 そのファシズムの下に置かれると、人びとはどうなってしまうのでしょう。 権力者に批判的になると仕返しが怖いし、周囲の目も気になるので、賛同しておく。あるいは同じ理由でおとなしく、何もしない。 それとも、良くないことは良くないと、それが権力者に対してであっても、周囲の目が気になろうと、当たり前のことを当たり前のように言える、勇気と信念を持つのか。 今も昔も、同じ勇気と信念が求められています。 最後にもう一度、8年前にこのブログで書いた言葉を引用し、締めくくります: 「最悪の状況にいる時は、果てしなく続く暗いトンネルの中に、一生いるのではないかと思うこともあるでしょう。けれども、それはいつかはきっと過ぎ去るのです。過ぎ去った後の自分自身を、今この時に問われているのではないでしょうか。」 [詳しくは#2] 前回を読む:卑劣なトランプイズム(2)【身をもって体験】 全シリーズ:卑劣なトランプイズム(1)~(3) [1] [2] [3] 同じテーマを読む:倫理観 【身をもって体験】
トランプ政権による迫害・脅し・残酷な政策の数々。それらの被害を、結局はトランプ投票者たちは身をもって体験しなければ、その卑劣さが解らないのでしょうか。 とはいっても、投票権があるのは米国市民のみ。移民・難民の苦しみを身をもって体験することは、自らが元移民・難民かつ米国籍を取得した一世でない限り、ほぼあり得ません。 また、大多数のトランプ投票者たちはアメリカにおける人種的マジョリティの白人。人種的な観点からは、マイノリティの苦しみを身をもって体験することも限られている。 けれども、社会的な観点からはどうでしょう。 例えば貧困に喘いでいる、又はLGBTQである、あるいは何らかの障害などを抱えた人たちであれば。それらのような場合、たとえ人種的マジョリティであっても、社会のなかで著しく不利な状況にある人たち・恵まれない境遇にある人たちの苦しみを、身をもって体験することはあります。 また、ある意味「間接的に」被害を体験することもあり得るでしょう。 例えば、過去数十年にも渡って、保守系は無責任な減税をポピュリズム政策の一環として掲げてきたこともあり、アメリカで盛んな小規模ビジネスの経営者たちは、減税目当ての保守系支持者が多いことで知られます。もちろん、現在は極右に傾いた保守系ですので、これら経営者たちにはトランプ投票者も多い。 他方、少なからぬ経営者たちが、賃金を低く抑えるために不法移民を雇っていることも周知の事実。世界中の極右保守系の決まり文句「不法移民を追い出せ!」を嫌悪感あらわに主張する一方で、「不法移民を雇用して経費を浮かせる」二枚舌なのです。 そして最近、まさに自らが後押ししたトランプ政権の残酷な政策により、自身の小規模ビジネスで雇っている従業員たちが強制送還されて、経営が成り立たなくなる事例が聞かれます。実は自身の主張が招き得る結果を考えてなかったのか、ズルい二枚舌の成れの果てです。 次に、農家はトランプ投票者が圧倒的に多いことで知られますが、これまた自らが後押ししたトランプ政権の浅はかな関税政策によって、中国・カナダなど農産物の主要取引先が購入を中止し、輸出が主な財源となっている農家の経営が傾くケースが相次いでいます。 ちなみに農家は、過去数十年にも渡り、多額の政府補助金を受け取ってきました。にもかかわらず、生活に困窮した他者が同じように政府の援助を求めるやいなや、「政府は無駄遣いをやめろ!」と感情むき出しに主張する。これまた、とてもズルい二枚舌なのです。 それに後押しされたトランプ政権は、生活困窮者を支えるフードバンクやシェルターなどへの援助を容赦なく切り捨てました。そうすると、これまた自身の主張が招き得る結果を考えてなかったのか、それらフードバンクやシェルターが巡り巡ると農産物の最終的な納品先になっている農家は、突然納品先がなくなり右往左往、さらなる政府補助金を期待する声が聞かれます。 ズルい二枚舌を使い、「何よりも自己利益の優先」を選んでしまうことは、「自分たちさえよければ」の典型例であり、責任ある大人としてとても恥ずかしいこと。 そう考えたならば、トランプ投票者たち自らがその被害を受けることは、自己の投票責任という観点から「自業自得」なのかも知れません。 けれども国政選挙なので、ハリス投票者たちまでもが被害の巻き添えを受けることは、理不尽ながらも避けては通れません。また、留学・仕事・その同行家族など、ビザを取得して合法に滞在している外国籍の人たちまで、投票権がないうえに巻き添えを受けることも、同じくです。 今回の大統領選の得票率はトランプ49.8% vsハリス48.3%。 1.5ポイント、約2百万票の差。「世界的視野をもって他者を大切にする心を育て、困っている人たちを助けようと一生懸命に頑張るリベラルなアメリカ」とは真逆になってしまうには、あまりの僅差ではないでしょうか。[詳しくは#110] 「何よりも自己利益の優先」に走ってしまったトランプ投票者たちが、もう二度とこのような過ちを繰り返さないことを、切に願ってやみません。 続きを読む:卑劣なトランプイズム(3)【自分自身が問われてる】 前回を読む:卑劣なトランプイズム(1)【心の隙間】 全シリーズ:卑劣なトランプイズム(1)~(3) [1] [2] [3] 同じテーマを読む:倫理観 【心の隙間】
今からおよそ8年前の第一次トランプ政権発足時に、このブログで書いた言葉です: 「最悪の状況にいる時は、果てしなく続く暗いトンネルの中に、一生いるのではないかと思うこともあるでしょう。けれども、それはいつかはきっと過ぎ去るのです。」[詳しくは#2] 暴力・差別・嘘・ヘイト・エゴイズム・ナショナリズム・特権意識など、アメリカの醜い部分を凝縮したようなトランプイズム。 移民・難民の家族を引き裂いたり、恐怖に怯えて泣きじゃくる幼い子どもたちを檻に閉じ込めたり。社会のなかで著しく不利な状況にある人たち・恵まれない境遇にある人たちを苦しめる、果てしなく続くかのような暗いトンネル。 それら数々の残酷な政策・言動の成れの果てが2020年でした。 その年のアメリカ大統領選において、バイデンがトランプに700万票超の差をつけて制し、「ようやく最悪の状況から解放される」と、米国市民のみならず、世界中の多くのリベラルな人たちが安堵しました。[詳しくは#67] 選挙に敗れたトランプは、今度は支持者たちに米国議会襲撃を焚きつけました。その後も、まともに証拠提出すらできないうえに、全ての裁判で退けられても、なお「不正があった、負けてない」と嘘を吐き続ける始末。 それら愚かなまでに幼稚な言動を前に、当初トランプに投票した少なからぬ人たちから、「彼がこんなに醜いとは知らなかった・思ってもみなかった」と、自らの投票を弁明する声が漏れ聞こえたものです。 けれども、それからわずか4年。 またもや「最悪の状況」に逆戻りしてしまい、残念でなりません。 トランプ投票者たちは、第一次政権時には「知らなかった・思ってもみなかった」で弁明できたかも知れませんが、今回はさすがにそれは通用しません。 それもその筈。性的暴行訴訟において有罪判決が確定したレイプ犯、ドナルド・トランプが病的に卑劣な人間なのは、もはや周知の事実だからです。それでも「知らなかった・思ってもみなかった」のならば、自身の無知を反省すべきでしょう。 トランプが卑劣であることを知りながらも、今回、それでも彼に投票した人たちの多くは、「何よりも自己利益の優先」を選んでしまったと言えるでしょう。 マイノリティ・LGBTQ・移民・難民など、マジョリティ・アイデンティティの外側で生きる人たちがどれほど苦しめられようとも、迫害されようとも、自分の生活の快適や優越感を選んでしまう弱い心。 このような心の隙間に「自己中心的ポピュリズム」は入り込み、やがてトランプイズムのようにファシズムへと変形していきます。「しょせん、人間なんてみんな利己的なんだから、自己利益を優先しないと損するだけだよ」と、シニカルに煽るかのように。 そして、もう既に始まっている新たな迫害や脅し。さらには、これから繰り広げられるであろう残酷な政策の数々。 それらの被害を、結局はトランプ投票者たちは身をもって体験しなければ、その卑劣さが解らないのでしょうか。 続きを読む:卑劣なトランプイズム(2)【身をもって体験】 全シリーズ:卑劣なトランプイズム(1)~(3) [1] [2] [3] 同じテーマを読む:倫理観 【優しい人】
「安全・礼儀正しさ」を誇るけれども、世界中の必要としている人たちを受け入れない国。 「安全・礼儀正しさ」を妥協してでも、世界中の必要としている人たちを受け入れる国。 「優しい人」とは、自分にとって不便であっても、また時には不快であっても、必要としている他者を受け入れて助けようとする人。 「優しい国」とは、そのような優しい人たちがより多くいるところ。また、「優しい社会」ともいえるでしょう。 それは、たとえ文化・習慣が異なった人たちと共に生活をすることが、とても複雑・難解であっても。 もちろん、安全はとても重要です。安全の積み重ねにより、平和は築かれます。けれども、自分たちだけ安全を確保するというのは、「自分たちさえよければ」になってしまいます。 それは、優しい人のすることではありません。 シリア、アフガニスタン、ウクライナ、パレスチナ、南スーダン、ミャンマーなど。紛争や暴力で家を追われた難民は1億1400万人を超え、人類史上最悪となっている現在。そのうち約4割が18歳未満の子どもたち。3分の1の家庭が子どもを学校に通わせられず、教育費を払える家庭はわずか1割。 たまたま、安全で豊な国の国民に生まれたというだけで、その恩恵を受けることができる。他方で、貧困にあえいでいたり、紛争地域の国民に生まれたというだけで、安全で豊な国の恩恵をシェアしてもらえない。 みんな平等な人間なのに、生まれで不平等を押し付けられるのは、とても理不尽でしょう。 今の日本を「優しい国」だと称賛してしまうと、世界中で必要としている人たちを拒絶してまで「自分たちさえよければ」を続ける人たちを、「優しい人」だと称賛することになってしまいます。 本当に「優しい国」とは、日ごろから人びとが移民・難民の受け入れについて議論を重ね、世界的視野をもって他者を大切にする心を育て、困っている人たちを助ける考えを深め、そして、社会全体を成熟させようと一生懸命に頑張っている国です。 アメリカという国では、国民全体の約半数であるリベラルな人たちが、そのような努力をしているところに希望を抱きます。他方で、同じ国でも、トランプ支持者たちなど国民の半数弱を占める保守的な人たちは、正反対の考えを主張して「自分たちさえよければ」に戻そうと必死です。 日本という国では、未だに正式な移民政策を拒絶し、あつれきを避けるために国境をほぼ閉ざしています。変化を避けたがる社会を、何とか変えてゆこうとするリベラルな人たちはうとまれ、今のところ残念ながらかなりの少数です。大多数の人たちは「自分たちさえよければ」を特に問題と感じず、あるいは気がついてすらおらず、又は気がついていたとしても、今まで通りに流されています。 文化・習慣が異なった人たちを受け入れ、大きな器をもって多様性を歓迎し、多彩な背景の人たちと共に生活をすると、自分たちのまちが、以前と比べて随分と変わってしまったと感じることもあるでしょう。一種の悲しみのような、郷愁のような、切なさのような感情が溢れ出ることもある。 けれども、だからといって「自分たちさえよければ」に流されないようにしたい。 複雑・難解であっても、それでも、他者を受け入れて大切にする心を育てたい。 前回を読む:優しい国(1)【安全で礼儀正しい】 同じテーマを読む:倫理観 【すべての命にとって】
妊娠中絶のみならず、避妊すら許容しないカトリック教会。その最高指導者であるローマ法王フランシスコは、中絶を「殺し屋を雇って、問題を解決する」ことになぞらえます。 センセーショナルに聞こえるかも知れませんが、これには、一理あるでしょう。 中絶も、殺人も、そして戦争も、「人を殺して今ここにある問題を解決しようとする試み」として、共通するところがあります。ここで考えるべきは「命を奪うことによって、問題を解決しようとしてはならない」ということです。 そして、Pro-Life(命を守る)に誠意をもって向き合うのならば、妊娠中絶のみならず、すべての人びとの命、生きものの命を守ることを考えない訳にはいきません。 ローマ法王により任命された、バチカン放送の本部長であるアンドレア・トルニエリは、今回の米国最高裁判決を歓迎する一方で、すべての命を守ることが本物のPro-Lifeであると、説明します。 それは、妊娠・出産による母親の死亡を防ぐこと、恵まれない境遇にある妊婦を助けること、銃犯罪から人びとを守ること、貧困に喘ぐ家庭を助けること、親子がもっと一緒に過ごせる時間がとれるよう有給休暇を増やすこと、移民・難民の人たちを助けること、死刑から命を守ること。本物のPro-Lifeとは、一面的な中絶反対運動であってはならないと、トルニエリは訴えます。 本物のPro-Life。 それは、 赤ちゃんの命を守ること。 母親の命を守ること。 すべての命を守る子育てをするために、貧富の格差をなくすこと。 移民・難民の人たちの命を守ること。 銃犯罪から、すべての命を守ること。 「ハンティングはスポーツ」などとして銃を持つ権利を主張する人たちから、すべての動物の命を守ること。 白人至上主義者や、暴力的な警察官などから、アフリカ系アメリカ人を含む、すべてのマイノリティーの人たちの命を守ること。 「肉を食べる」文化を改めて、すべての動物の命を守ること。 死刑から、すべての命を守ること。 こうして見てみると、アメリカにおけるリベラル層、とりわけプログレッシブ(Progressive)な人たち程、これらについてPro-Lifeであることが分かります。リベラル層が本物のPro-Lifeであるには、妊婦自身のPro-Choice(選択する権利を守る)一辺倒ではなく、「赤ちゃんの命を守ること」からも目をそらさずに、しっかりと向き合うべきでしょう。 もちろん、判断が容易なことばかりではありません。例えば、卑劣な殺人を犯してしまった人の場合、死刑を望む遺族の感情など、とても心が引き裂かれる想いもあります。 ここで言える確かなことは、Pro-Lifeに誠意をもって向き合うのならば、妊娠中絶のみならず、すべての人びとの命、生きものの命を守ることを、真摯に考えない訳にはいかないという事実です。 アメリカにおけるPro-Life Movement(命を守る運動)は保守層を中心として、赤ちゃんの命の場合にのみ、Pro-Lifeを主張します。それは、母親の命に危険があろうが、性暴力による妊娠であろうが、もはや一面的な中絶反対運動になりつつあります。白人至上主義にアメリカを戻そうとするドナルド・トランプを、いまだに支持する過激な保守層であればある程、中絶における胎児以外の場合には、人びとの命に見向きもせず、むしろ反Pro-Lifeを主張しています。 それでは、本物のPro-Lifeとは、とても言えないでしょう。 前回を読む:どんな時もPro-Life(2)【格差社会の問題】 全シリーズ:どんな時もPro-Life (1)~(3) [1] [2] [3] 同じテーマを読む:倫理観 【格差社会の問題】
過去も現在も、妊娠中絶が禁止されている国や地域では、どうしても出産を希望しない妊婦は、自らの手で中絶をしようするケースが後を絶たない。 世界中で、年間約17百万人の妊婦が医師によらない中絶を行い、そのうち7万人が命を落としています。医師にかかることができない結果として、胎児のみならず、妊婦自身の命さえも犠牲にしたり、一生半身不随になってしまうこともあります。 Pro-Life(命を守る)としては、本末転倒といえるでしょう。 また、医師にかかることができないのは、格差社会の問題でもあります。実際に、医師によらない中絶の約97%は、発展途上国で行われていると報告されています。アメリカにおいては、中絶を希望する女性のうち、約75%が経済的に困窮している状況にあります。 住んでいる地域において中絶が禁止されている場合、経済的に恵まれない境遇にある人たちは、医師によらない中絶の危険にさらされます。他方、恵まれた境遇の人たちは、中絶が認められている州外や海外にでるなど、ありとあらゆる手段を駆使し、結局は中絶ができるといった傾向が見られます。 また、望まない妊娠を防ぐための性教育も、避妊具へのアクセスも、恵まれた境遇の人たちは受けやすく、恵まれない境遇にある人たちは受けにくい傾向がある。 このように中絶の禁止は、世界中で広がりを見せる「格差社会」を助長してしまう傾向があるのです。それは、恵まれた境遇の人と恵まれない境遇の人との間に生ずる、生活水準の格差であり、収入や保有資産の格差です。 そして、性教育や避妊具へのアクセスが受けづらく、望まない妊娠をしてしまい、中絶が禁止されている場合。やむなく出産するのか、あるいは医師によらない中絶の危険にさらされるのか。こうして、中絶の禁止は、恵まれない境遇にある人たちの選択肢を危険なまでに狭めてしまい、ひいては教育や雇用など「機会の格差」に繋がってしまいがちです。 その「機会の格差」が「格差社会」をより深刻化させる、まさに、負のスパイラルに入ってしまうのです。 妊婦の命が危険にさらされた妊娠・出産における、胎児の命と、妊婦の命。さらには、その妊婦の他の子どもたちや、夫や、家族の生活。すべての人たちを守ることが、とても困難な場合があります。 少なくとも言えることは、女性の権利をはく奪することが、正しい解決策とは思えません。他方、赤ちゃんの命を犠牲にすることも、正しい解決策とは思えないのです。 その答えを見いだすのには、悲痛なまでに心が引き裂かれます。それは、一律な法律をもってして、線引きができるようなことではないと思われます。個々の事情を考慮せずに、一律な判断はできないと思われるのです。 そして、Pro-Life(命を守る)に誠意をもって向き合うのならば、妊娠中絶のみならず、すべての人びとの命、生きものの命を守ることを考えない訳にはいきません。 次回は、そこについて、考察を深めたいと思います。 続きを読む:どんな時もPro-Life(3)【すべての命にとって】 前回を読む:どんな時もPro-Life(1)【妊娠中絶】 全シリーズ:どんな時もPro-Life (1)~(3) [1] [2] [3] 同じテーマを読む:倫理観 【妊娠中絶】
先月、アメリカ連邦最高裁は「妊娠中絶に係る女性の権利は、憲法により保障されている」とした1973年の判決(Roe v. Wade判決)をくつがえしました。 これにより、米国議会において新法が成立するまでは、各50州の州法をもって、中絶の権利がそれぞれ定められることになります。実際に、アラバマ州やルイジアナ州を含む22の保守的な州においては、既に中絶が禁止になったか、或いはなる見込みです。 アメリカをはじめ、キリスト教(特にその最大宗派であるカトリック教)が浸透している国々において、妊娠中絶は政治的・宗教的にも、人びとの大きな関心事です。アメリカにおいては約80万件、日本では16万件、世界中で73百万件の中絶が、一年間で報告されていることからも、これは誠意をもって向き合わなければならない課題でしょう。 ここで忘れてならないのは、その1件づつが「赤ちゃんの命、人間の命」であるという事実。 そもそも、アメリカにおけるPro-Life Movement (命を守る運動)は保守層を中心として、生まれてくる赤ちゃんの命を守るべきだと、妊娠中絶の禁止を訴えてきました。 一方でリベラル層は、女性の医療にかかる権利の尊重として、中絶は妊婦自身に選択する権利があるべきだと、Pro-Choice(選択する権利を守る)を訴えてきました。 このような背景から、今回の最高裁判決は、胎児の命を守ることを優先し、女性の権利をはく奪する判決だといえるでしょう。 妊娠中絶を禁止することは、「赤ちゃんの命を守る、人間の命を守る」という意味において、とても大切です。軽率に妊娠をしても「中絶すればいいや」という風潮を、何とか防ぎたいとする想いでもあります。 また、出産しても、赤ちゃんを育てられない母親の場合。例えば、多くの思春期妊娠など、アメリカでは約10%の中絶が、19歳以下の妊婦のケースだと報告されています。けれども、現在のアメリカにおいては養子制度が整っており、年間約14万人の子どもたちが養子として迎え入れられ、他者の子どもを迎え入れる準備のある「育ての親」たちが推定1~2百万組はいるとされています。 その「育ての親」は、自分たち自身の赤ちゃんを授かることができず、養子を待ち望んでいる夫婦。あるいは、実子はいても、親の庇護に恵まれない他の子どもたちも迎え入れて、実子と共に育てるケースなど、実に様々です。中絶ではなく、生まれてくる赤ちゃんは「育ての親」に委ねるという選択肢が、確立されています。 けれども、妊娠中絶に係る課題は、それだけでは解決が出来ないというのも、事実でしょう。 例えば、妊娠・出産により、妊婦の命が失われる程の危険がある場合。一例として、子宮外妊娠の状態で胎児が成長した場合、もともと赤ちゃんが成長できる環境ではなく、妊娠7週頃になると胎児を含む構造が破裂し、出血やショック症状で、妊婦の命に危険が及びます。 そもそも子宮外においては、栄養が供給されない・スペースがないなど、残念ながら赤ちゃんは育つことができない。現在のアメリカでは、年間6万件以上の子宮外妊娠が報告されています。それでも中絶を禁止するということは、妊婦の命を守らないということになります。 Pro-Life(命を守る)としては、これでは本末転倒といえるでしょう。 また、アメリカでは、年間3万件以上の妊娠が強姦や親近相姦によると報告されています。妊婦はおぞましい性暴力の被害にあったうえに、たとえ生まれた赤ちゃんを養子に出すとしても、出産まで9か月間にも渡り、精神的にも肉体的にも、苦しめられるという二次被害にあう。そのようなトラウマに、一生苦しめられる女性たちが多くいます。 そして、歴史をさかのぼってみても、また現在でもなお、アメリカのみならず世界中で、特に妊娠中絶が禁止されている国や地域では、どうしても出産を希望しない妊婦は、自らの手で中絶をしようするケースが後を絶たない。 世界中で、年間約17百万人の妊婦が医師によらない中絶を行い、そのうち7万人が命を落としています。医師にかかることができない結果として、胎児のみならず、妊婦自身の命さえも犠牲にしたり、一生半身不随になってしまうこともあります。 これも、Pro-Life(命を守る)としては、本末転倒といえるでしょう。 続きを読む:どんな時もPro-Life(2)【格差社会の問題】 全シリーズ:どんな時もPro-Life (1)~(3) [1] [2] [3] 同じテーマを読む:倫理観 【ベジタリアン】
わずか150年ほど前まで、動物たちには感情がなく、恐怖や痛みを感じることがないと、一般的に解釈されていました。 肉を食べる人間にとって、その動物たちを殺害することへの罪悪感を避けるには、とても都合のよい考え方だったといえるでしょう。けれども、今となっては当たり前ですが、動物たちにも人間のように感情があることが、科学的に解っています。 何も科学に頼るまでもなく、たとえば犬さんや猫さんと暮らしている人たちであれば、動物たちのとても豊かな感情を、毎日体感しているでしょう。農家で生活をしてみると、牛さん・豚さん・鶏さんも、私たちと同じように感情を抱いていることに気づかされます。 150年前の人たちが知らなかったことを、今の私たちは日常の中で、そして科学から、その当たり前の事実を確認しています。 また、今から200年ほど前まで、世界の至るところで数千年にもわたって、奴隷制度は一般的でした。例えば、約2千年前に建設されたローマのコロッセオでは、500年間にもわたって、主に奴隷や戦争捕虜の人たちを、ほとんどの場合は死亡するまで戦わせ、猛獣と呼ばれる動物たちと殺し合いをさせ、そして、人びとは観客席からその様子を、あたかも野球観戦をするかのように楽しんでいました。 今の私たちからすると「どうして、平気な顔をして、そのような酷いことができたのだろう」と疑問に思います。 けれども、それと同じように、今からさらに数百年後の人たちから見ると、現在の私たちのことも、「どうして、平気な顔をして、動物や魚たちを大量殺害し、食べることができたのだろう」と問われても、何ら不思議ではないでしょう。 また、かつての動物たちのように、魚たちにも、そして植物たちにも感情があることが、いづれ科学的に実証される日が来るとしても、驚くことはないでしょう。事実、現在においても既に、そのような研究結果は多数報告されています。 そう考えたなら野菜も植物であり、生きものである以上、数百年後の人たちから、私たちの「野菜を食べる」モラルが問われることは充分に考えられます。 もちろん、現在の私たちの知識や技術では、肉や魚は食べなくとも満足な栄養はとれますが、その代わりに野菜を食べなければ、健康は保てません。それは、生きてゆくためには、別の生きるものから栄養を頂かなければならないという、とても割り切りがたく悲痛なまでの生命の限界を、避けられない現実として私たちに突きつけます。 けれども、その理由をもってしても、理由があるからといって、モラルに照らして正しいことにはなりません。私たちが植物を殺害して「野菜を食べる」ことも、「自分や愛する人たち、そして全ての人が、日常生活を送るなかで突然に、殺されても妥当だ」と、結論づけることができないことから、モラルに照らして間違っています。 その事実を受け止め、一方で別の生きるものから栄養を頂かなければならない生命の限界のなか、どうするのか。 食物連鎖を考え、命を奪うことをできる限り減らすには、肉や魚はやめて、野菜を食べることが、現在の私たちにできる有効な選択ではないでしょうか。 「肉を食べる・魚を食べる」文化も、奴隷制度も、戦争も、それらの共通点は、「その行動には理由がある」ということ。そして、と殺場の労働者たちが人目に触れにくい所で動物の殺害を引き受けているように、戦争においては、戦場の労働者である兵隊たちが、私たちから遠く離れた所で殺りくを引き受けている。 自分自身の手で、目の前で殺さなくていいから、多くの人たちはこれらのことを「理由があるので仕方がない」と、片づけてしまう。 けれども、モラルをもって考えてみたならば、人間は「肉を食べる・魚を食べる」文化による殺りくや、戦争による殺りくを、やめる方向で進んでいます。 私たち人類の歴史を大きな流れとして捉えたならば、人類のモラルが確実に上昇曲線を描いていることに気がつくでしょう。直線ではなく、紆余曲折なギザギザですが、数百年単位でみれば、そのトレンドは確実に向上している。このとても大きな流れは、私たち一人ひとりが受け継いでおり、そして次の世代へ一人づつ引き継いでゆくのです。 現在は、およそ完全には程遠く、モラルの頂点は遥か先ですが、少しづつでも人類をより高いモラルへつないでゆくことが、私たち一人ひとりの責任なのではないでしょうか。 前回を読む:モラルって、何なの?(7)【できる限り減らす】 全シリーズ:モラルって、何なの?(1)~(8) [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] 同じテーマを読む:倫理観 【できる限り減らす】
【モラルって、何なの?】シリーズ第3~6回にわたって、私たちの「肉を食べる・魚を食べる」文化が、モラルに照らして間違っていることを書きました。 けれども、私のことを個人的に知っている人たちからは、「おいおい、そこまで言うか」と思われても仕方がありません。事実、ほんの一年ほど前までは、私も毎食のようにお肉を食べていましたし、悔しいことに、今でも時折お魚は食べます。 私がお魚をたまに食べる理由は、「ツナ缶やちくわ類は、鮮度に気を遣わず保存がきくため、無駄にすることがない」や「外食で寿司を食べることがある」でしょうか。 だからといって、お魚を食べることが「モラルに照らして正しい」と主張することはしません。なぜなら前々回に述べた通り、それは紛れもなく、モラルに照らして間違っているからです。 先ずはその事実を認め、自分が食べるために多くの魚たちを殺害している現実と罪悪感を、正面から受け止める。 そして、それを受け止めたのなら、次に、そこからどうするのか。 そこで、ひとつの解答として考えられるのが「できる限り減らそう」ではないでしょうか。 もちろん、少ないから許される訳ではない。殺害は許されないし、やめなければならない。一方で、生まれてから固形物が食べられるようになって数十年も、当然のようにお肉やお魚を食べ続けてきた人たちに、いきなり「ゼロにしましょう」と言っても、それはなかなかすぐには進まないことが多い。 どのような物事であっても、慣れ親しんできたものをやめるのは、大変な場合がほとんどです。ましてや「食べる」文化ともなれば、尚更でしょう。 そのような中、例えば、毎日お肉を食べている人に「一日おきにしてみては」と提案する。その人がそうしたならば、それだけで、一年間で平均5人の動物たちが殺害されなくなります。 あるいは「二日ぐっとこらえて、一日食べるのはどうでしょう」と提案してみる。その人がそうしてくれたなら、それだけで、一年間で平均7人の動物たちの命を守ることができます。それを十年間続けることができたなら、70人の命です。 お魚の場合、「一日おき」で平均75人の魚たちが、「二日こらえて、一日食べる」で100人の魚たちが、一年間で殺害されなくなります。それを十年間続けることができたなら、750~1,000人の命です。 その人ひとりだけの賛同と行動で、現実として確実に、多くの命を守ることができるのです。 そして、世界中の人たちがそうしたならば、一年間で360億~480億人の動物たちが殺害されなくなります。お魚の場合、一年間で6,000億~8,000億人の魚たちの命を守ることができる。 現在の地球上に生きるすべての人間が78億人であることを考えたなら、たった一年間で守ることができる命は、その数倍~100倍超。それを十年間続けることができたなら、とてつもない程の命です。 「世界中の人たち」とまではいかなくとも、一人でも二人でも賛同と行動が重なることで、多くの命を守れるのです。私たち一人ひとりは、微力ながらも、無力ではありません。また、「何もかも」はできなくとも、「何か」はできる。 私たちが食べるために、人目に触れにくい所で当たり前のように、動物たちや魚たちを殺害している現実。これをすぐにはゼロにできなくとも、減らすことはできます。それが、いづれはゼロに繋がってくれることを願って、できるところからやってみたい。 続きを読む:モラルって、何なの?(8)【ベジタリアン】 前回を読む:モラルって、何なの?(6)【何も変えたくない】 全シリーズ:モラルって、何なの?(1)~(8) [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] 同じテーマを読む:倫理観 【何も変えたくない】
次に、ふたつ目は、「動物実験をしている現代医療の恩恵は受けておいて、お肉を食べるのは駄目って、それではつじつまが合わない」のような反論。 確かに、医学の研究は進み、医療技術や薬品の開発はめざましい発展を遂げました。人体での臨床試験をする前に、動物実験により、その安全性や有効性について確認できることがあるのも事実です。 けれども、多くの動物実験は、動物たちに薬物を注射したり、毒物を食べさせたり、臓器や細胞を切り取ったりして、意図的に害を加え、苦痛を与え、恐怖を体験させ、そして実験終了後には殺害するのです。また、人間に近い哺乳類で実験をする方がより正確であろうということから、その動物たちを実験目的のため、商品のように大量生産している。 更に、2015年の統計によると、世界中において一年間で、猿さん・犬さん・ねずみさん・うさぎさんなど、少なくとも約2億人もの動物たちが実験に利用され、そのほとんどが殺害されています。 新型コロナウイルスが猛威を振るい始めてから約1年半になりますが、世界中における死者は、現在のところ約390万人にのぼります。死者数の比較をしたならば、いかに動物実験の被害が大きいのかが分かります。 そして、さらに驚くべき比較は、前回と前々回に述べた、私たちが食べるために殺害している動物たちと魚たちの被害でしょう。以下に、一年間における死者数を並べてみました。 【コロナ,1年半】 3,900,000人 【動物実験】 200,000,000人 【肉を食べる文化】 72,000,000,000人 【魚を食べる文化】 1,200,000,000,000人 上記のうち、コロナを除いた死者数は、ほとんどの国で報告義務がゆるいため過小評価であろうことと、人間が意図的に殺害しているという事実を、忘れることはできません。 これらを考えたならば、「動物実験をしている現代医療の恩恵は受けておいて、お肉を食べるのは駄目って、それではつじつまが合わない」との反論が、とても浅はかであることが分かります。 それは、「だから肉や魚を食べてもいいんだ」と、正当化を目的として用いられるからです。当然ながら、「既に2億人を殺害しているのだから、さらに720億人を殺害しても、なお追加で1兆2000億人を殺害してもいいんだ」という主張は、あまりに乱暴で、とても成り立ちません。 * * * * * * * * * * 前回採り上げたひとつ目の反論や、今回のふたつ目の反論。この双方に共通するのは、何らかの理由を述べるものの、結局のところは「何も変えたくない」とする姿勢ではないでしょうか。 「動物も他の動物を食べる」とする理由と、「動物実験の恩恵を受けている」とする理由。 けれども、理由があるからといって、モラルに照らして正しい訳ではないことは、繰り返し説明している通りです。#70で述べた「奴隷制度」のように、「その行動をする理由がある」のと、「その行動がモラルに照らして正しい」のとは、まったくもって別ということ。 そして、結局のところは「何も変えたくない」から、お肉やお魚を食べる理由を並べても、私たちの「肉を食べる・魚を食べる」文化がモラルに照らして間違っていることには、何ら変わりはないのです。 続きを読む:モラルって、何なの?(7)【できる限り減らす】 前回を読む:モラルって、何なの?(5)【人間の責任】 全シリーズ:モラルって、何なの?(1)~(8) [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] 同じテーマを読む:倫理観 |
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