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【愛情は心です】
終活において願うことは、残された貴重な時間の多くを、今ある人生をより充実させる前向きな活動にあてたい。 それは、愛する人たちへ感謝の気持ちを伝えたり、有意義な時間をともに過ごすこと。 一緒に思い出を振り返ったり。笑ったり、しみじみしたり、喜んだり、涙したり。そうすることで、人生の終わりに差し掛かっていても、「大切な人との思い出」はさらに増えます。 そして、世の中の幸せを少しづつでも増やすことによって、お世話になったこの広い世界へお返しをすること。特に、生まれながらに恵まれない境遇にある人たちに、しっかりと向き合いながら。 それには、自分に何ができるのかを考え、それを行動に移し、そして、愛する人たちとそれらについて語り合うこと。 もちろん、自分ひとりでひっそりと行動するのも、やらないよりは遥かに良い。これには、疑う余地がありません。 「善行を重ねる」とは、人知れず善い行いをすることのように思われがちです。特に日本文化において、この「人知れず」が美徳とされており、そこにこだわる傾向がある。 「善行を語るは、自慢なり」と解釈される場合もあるでしょう。その解釈に、一定の理解を示すこともできます。 けれども、何を、どのような考えのもと、今までやってきて、そして、これからもやろうとしているのか。それらをできるだけ多くの人たちと語り合うことは、世の中の幸せを増やすには、実はとても大切なのです。 「自分だけの力をおごるなかれ」と知ったならば。「ひとりだけの活動には限界がある」と認めたならば。そして、今この瞬間にも困窮している人たちが、世界中にたくさんいることに向き合ったならば。 そうであるならば、より多くの人たちに、幸せを増やす活動に参加してもらうことが、重要だと気づきます。たとえ「自慢」だと思われても、うとまれたとしても。できるだけ話し合って参加を働き掛けることは、とても大切なのです。 また、それは、会ったこともないような遠くにいる人たちだけがやっている、特別な活動ではなく、すぐそこにいる人たちもやっている、身近な活動だと知ってもらう意味も込めて。 人生の最期に向けてしておきたいのは、「自分たちだけ良ければ」に囚われないこと。 家族への優しさを、困窮している他者へも、できるだけ向けること。 愛する人たちとの、そして世界中の人たちとの、心と心が通じ合う活動こそが、私たちにとって本当に大切な終活ではないでしょうか。 前回を読む:終活(2)【愛情はお金でもありません】 全シリーズ:終活(1)~(3) [1] [2] [3] 同じテーマを読む:家族 【愛情はお金でもありません】
本当のところは、相続をしても、あるいはしなくても、愛情に満ちて幸せになるかどうかは、まったく別の話です。 なぜなら、愛情はお金ではないからです。 「でも、病気とか事故とか、人生は何があるかわからない。そういう時こそ、お金はあって困るものではないから。」 「遺された家族への優しさ」からくる考えなのは、間違いないでしょう。 けれども、それはまるで相続を、保険の勧誘のごとく勧めるようなもの。 今、私たちが生きるこの世界において、人口の約80%を占める65億人もの人びとが、月9万円未満(US$ 600)での生活をしいられている。そのうち7億人超の人びとが、月9千円未満(US$ 65)での生活に苦しんでいる。 それは、自分がこの世から去った後、家族に「万が一起こってしまったら」と、危惧している状況そのもの。 けれども、その「何があるかわからない」が、現実として「もう既に起こっている」人たちが、世界にはこれ程たくさんいるというのに。いわゆる「万が一」の状況に陥っている人たちが、そして生まれながらにその境遇にある人たちが、今この瞬間においても実際に大勢いるというのに。 家族への優しさを、困窮している他者へは向けられないことが、主流となっている世の中です。 「家族が一番大切だから」という美徳。「家族を守っているだけ」という責任感。それらが、ややもすれば「他者を切り捨てる」ことだと、歪んだ解釈がはびこる世の中です。 そして、その延長線上に、「自国を守っているだけ」と言いながら「他国の人びとを切り捨てる」国益や戦争の理論が、成り立ってしまうのです。 その根底にあるのは「愛情」という名のもとに、世代をまたいで、家族だけを優先し続けてしまうこと。 この世から去った後ですら、恵まれない境遇にある人たちに向き合わず、自分の家族さえ良ければいいという「自己中心的な愛情」に固執することが、私たちにとって本当に大切な終活なのでしょうか。 続きを読む:終活(3)【愛情は心です】 前回を読む:終活(1)【愛情はモノではありません】 全シリーズ:終活(1)~(3) [1] [2] [3] 同じテーマを読む:家族 【愛情はモノではありません】
人生の終わりのための活動。人生の最期に向けて行う活動。 それが「終活」です。 例えば、今後の医療方針を決めておいたり、葬儀について書き留めておいたり。また、身の回りの物品・書類を整理したり、相続について遺言を残しておいたり、など。 多くの場合、数十年にも渡り築き上げたすべての整理ですので、自分自身の総決算とでもいいましょうか。「遺された家族の負担を減らすため」という思いやりから、思慮深く、愛情深い人ほど、時間と労力を掛けるのかも知れません。 一方で、人生の残された時間をそれらに費やしてしまうのは、少し残念な気がするのも事実でしょう。 なぜなら、物品・書類の整理は、ほぼ自分ひとりでする作業だから。残された貴重な時間の多くを、ひとり作業に費やすのは、何だかもったいない。 物品・書類を整理しておいてもらえることは、遺された家族にとってはたいへん助かるので、是非やっておきたい。しかし、くれぐれも見失わないようにしたいのは、物品・書類は愛情ではないということ。それらは、あくまでもモノです。 もちろん「大切な人との思い出」がたくさん詰まっているモノもあります。例えば、大切な人が長年愛用していた衣類や道具など。あるいは、一緒に撮った写真も「大切な人との思い出」がぎっしり詰まっている。それらはモノには違いないのでしょうが、かけがえのないモノです。 それでも、その「大切な人との思い出」自体に優るモノなどありません。 そして、財産・お金も愛情ではありません。 これまでの人類の歴史において、古今東西、多くの文化において、財産・お金を家族に残すことが主流となっているのは事実でしょう。「財産を子に残すことは、美徳だ」という人もいれば、「相続は愛情だ」とすら呼ばれることもある。 けれども、本当のところは、相続をしても、あるいはしなくても、愛情に満ちて幸せになるかどうかは、まったく別の話です。 なぜなら、愛情はお金ではないからです。 続きを読む:終活(2)【愛情はお金でもありません】 全シリーズ:終活(1)~(3) [1] [2] [3] 同じテーマを読む:家族 【祝福できない親って】
「親だって人間だ。好き嫌いもあるし、子の結婚に反対する権利だってある!」世の中の多くの親が、このように主張するのかも知れません。 確かに好き嫌いや、反対する権利は、誰にだって、どのような物事についてもあるでしょう。しかし、はっきりと言うのならば、子の結婚相手を決めるにおいて、親の「好き嫌い」はまったく関係ありません。 それは、親が結婚する相手ではなく、子が結婚する相手だからです。すべての人が、自分自身が好きな人とお互いに惹かれ合って、結婚する権利を有しているからです。 そうであっても、どうしても子の結婚に反対するのであれば、他の重要な物事と同じように、それ相応の覚悟をもってしなければならない。それが、大人としての責任でしょう。親の立場から主張するだけしておいて、最後は子に甘えて「水に流してもらって当然」とする考えでは、大人として、ましてや親として、あまりにも無責任でしょう。 親が反対した相手と、結局は、子が結婚をした場合、子は、その相手と生涯を共にする夫婦になります。そして、親が反対したというその事実は、子夫婦の記憶にも感情にも、苦々しい出来事として一生刻まれてしまうことを、親は覚悟するべきでしょう。「いづれ、子夫婦も分かってくれるだろう、忘れてくれるだろう」などと、安易に考えてはいけない。 ましてや、子夫婦が歩み寄り続けたにもかかわらず、それが、親としての権力をいたずらに振りかざした、差別もいとわないような、見境がない猛反対であったならば、最悪の場合、子夫婦との関係断絶にまで至っても、何ら不思議ではない。そうなれば、いづれ授かるかも知れない孫との関係構築も、難しくなるでしょう。 大人として、自由と、それに伴う責任をしっかりと受け入れ、その覚悟をもって反対するのならば、それは、誰にも止めることはできません。 けれども、親として、よく考えてみたいものです。 ほとんどの場合、親は子より先に、この世を去ります。その後、子と共に支え合って、生涯を寄り添ってくれる相手というのは、親にとって心底、有難い存在ではないでしょうか。愛する我が子を、そこまで大切に想ってくれる相手とは、この上なく有難い存在ではないでしょうか。 そして、人生において、そのような存在を見つけることができた子に、とても深い喜びと感謝の気持ちを、愛情深い親であればある程、きっと感じるのではないでしょうか。 お互いを想い合う二人が、これからの人生を共に、一歩づつ歩み始めようとしている。子の人生において最も幸せで、かけがえのないその瞬間を、祝福できない親とは、いったいどういうことなのでしょう。本当に子の幸せのために、子を産み、子を育てたのでしょうか。それとも、親自身の幸せのために、親孝行をしてもらうために、親の言うことを聞いてもらうために、子を産んで育てたのでしょうか。 子の結婚相手を意見することが、「大切な我が子を手放したくない」とする「親の美しい愛情表現」だと思い込んでいるのであれば、それは、むしろ「親の勘違い」でしょう。子が親に本当に望んでいるのは、そのようなありきたりなポーズではなく、本物の愛情を正直に表すことではないでしょうか。 子の人生において最も幸せで、かけがえのないその瞬間を、たとえ何があったとしても、心から祝福できる親でありたい。 前回を読む:結婚に反対するということ(1)【勘違いしている親】 同じテーマを読む:家族 【勘違いしている親】
「幸せにしますので、娘さんと結婚させて下さい。」 「この人と、結婚したいと思ってます。」 成人した子が、お互いの両親に結婚の挨拶をする。その折には、このようにするべきだと、知らず知らずのうちに、すり込まれてはいないでしょうか。 そして、暗黙のルールのごとく、その続きは「・・・なので承諾して下さい」となる。 子は、二人の結婚を決める権利が、自分たちにあることを理解しているつもりでも、ついつい、親の承諾を求める傾向にあります。また、場合によっては「親が反対する結婚は、しない方が良い」とまで、考えてしまう人もいるようです。 そのような心理を見透かしたように、子の結婚に意見をしたり反対する親が、後を絶たない。 「そのうち愛情なんてなくなるから、条件の悪い相手はやめなさい。」 「同じ国籍・人種の相手にしておいた方が、トラブルが少なくていい。」 また、結婚する相手というよりは、その家族について反対する親もいるようです。 「家族ぐるみの付き合いが、できない相手は駄目だ。」 「こっちは条件が良いんだから、つり合いがとれていないと、後々苦労するぞ。」 更には、特に女性に対して、差別的な意見であっても許されると、それが「子への愛情」だと錯覚する親までいる始末。 「健康に問題があったり、子どもが産めないのなら、絶対に反対だ!」 「もういい歳なんだから、売れ残る前に、早く結婚しなさい。」 これらのように、ややもすれば「子の結婚を決める権利は、親にある」とでも言いたげな親が、多いのではないでしょうか。世界中のあらゆる国や文化でも見られるようですが、日本を含むアジアにおいて、特に目立つように思われます。 それは、元を辿れば、2500年前の中国に生きた孔子の教えが、儒教として、アジア広域に受け入れられた歴史に起因するのかも知れません。「優れた指導者に従い、生きなさい」とする儒教の基本的な教えについて、多くの場合、親が「優れた指導者」だと自動的に解釈され、「親に従うことが美徳だ」となってしまう。 結婚は人生の重要な選択であり、また、大きな岐路でもある。その事実を捉えると、経験の浅い、若い二人で決めるよりも、「親に従うべきだ」とする考えが、アジアにおいて根深く浸透してしまっている。結婚の当人である二人の、お互いを深く想い合う大切な気持ちよりも、親に従うべきだと。 実際に日本の旧民法では、家族の一員は結婚・居住地など自分自身の人生の重要な選択を自由に決める権利がなく、戸主(現在でいう世帯主)の同意が必須要件でした。戸主とは、その家を代表する男性であることがほとんどで、父親か、もしくはそのあとを継いだ長男でした。当時は、子どころか兄弟姉妹であっても、戸主の同意が必須だったのです。そのような法律が、戦後の1947年まで用いられていたことからも、「親が子の結婚に意見して当然だ」とする風潮の根深さが伺い知れます。 けれども、子の結婚を決める権利は、子本人に備わっています。それは、疑う余地のない、人権です。国連総会にて1948年に採択された「世界人権宣言」においても、その権利は、明確にされています。人権とは、すべての人に生まれながらにして備わっている、基本的な権利です。親に、子の結婚を決める権利はありません。 その事実を勘違いしている親が、多いのではないでしょうか。 続きを読む:結婚に反対するということ(2)【祝福できない親って】 同じテーマを読む:家族 ペットショップの前を通るたびに、ついつい目を奪われる、子イヌや子ネコたち。たまらない愛らしさに、思わず無条件で家に連れて帰りたくなる。
けれども、少し待って下さい。 その子たちが大人になっても、そして介護が必要な老犬・老猫になっても、愛情を持って、生涯面倒をみれますか。 「絶対に!何が何でも!面倒みる!!」 そう思えたなら、すぐさまダッシュです。けれどもペットショップではなく、シェルターなど動物保護施設へ。そこで保護されている可愛らしいイヌやネコを、新たな家族として受け入れてはどうでしょう。そう、英語でいう「Adoption」です。それは「養子」として、イヌやネコを家族に迎え入れるという発想。 アメリカでは年間約650万人のイヌやネコが、日本では約14万人が、飼い主不明など何らかの事情で、シェルターにて引き取られています。そして、アメリカでは年間約153万人、日本では約8万人が、そのけな気な命を殺処分で落としている。殺処分とは、健康で、家庭で引き取れる状態のイヌやネコたちを、シェルターでは定員オーバーにより面倒がみれないという理由で、殺害してしまうこと。 なぜ、ペットショップなどで、ペットを買わないことがとても大切なのか。 それは、既に命あるたくさんのペットたちが、養子として受け入れてもらえる家庭を探して待っているからです。わざわざブリーダー等により、「お金儲けの商品」とする命をつくり出さなくとも、多くの命が既に存在しています。 また、どのような商品であろうとも、その生産過程において「欠陥品」や「売れ残り」がでてしまいます。それは、ペットを商品として扱っている、ペット売買産業も同じです。どれほど可愛らしいその子たちであっても、命の平等よりも血統や色や見た目に価値を置く売主・買主によって、勝手にひどいレッテルを貼られ、いずれはシェルターへと流される。そして、その命たちは、受け入れ家庭が見つからなければ、近い将来、殺害されてしまう。 動物愛護先進国であるドイツでは、ペットを生涯に渡って面倒をみる意識が高く、シェルターにて引き取られたイヌやネコであっても、90%以上が養子として、新たな家庭に迎えられてゆきます。もちろん、殺処分は法律で禁止されており、また、厳しい許認可制により、ペットの売買もほとんどありません。 「シェルターにいる雑種よりも、ラブラドールやスコティッシュフォールドなど、ブリーダーから純血種がほしい。」ペットショップなどで、純血種の子たちと触れ合うと、もう何も考えずに、ただただ連れて帰りたくなる。 けれども、あえてそこで立ち止まって、考えてみてもらいたいのです。 人間は、お金では買えない。それは、奴隷時代の教訓です。命の売買など、許されない。そうであるのならば、家族として人生を共にするペットも、また、同じではないでしょうか。 同じテーマを読む:家族 親にとっても、子にとっても、親子関係は特別な関係性です。そして、時にその関係は、師弟関係になぞらえられることもあります。
「師弟関係」などと言うと、何だか古臭く聞こえます。けれども、今日においてもそれらしき関係性は、親子関係以外にも見られます。例えば、学校の「教師と学生」。あるいは、塾や習い事の「先生と生徒」。それは、会社の「上司と部下」にもあるでしょう。 もちろん、これらの関係性すべてにおいて、師弟関係が成り立つ訳ではありません。残念なことに、上に立つ者が常に優れた人物である、とは限らないからです。その場合、「師」と呼ぶには相応しくないでしょう。 また、師弟関係とは言っても、絶対服従のような堅苦しい意味での「師弟」というよりは、むしろ、弟子の成長を促すため、師から弟子へ、何らかの知恵を教える関係性を表しています。もちろん、その過程において、師も弟子から色々と教わります。 ひとつの例として、友達に手をあげてしまった子に、「相手を叩いてまで、自分に従わせようとしてはいけない」と、親が教える。 「なぜ、いけないの。こっちがやらなかったら、あっちにやられるんだよ」と、子が反論する。 「それは、暴力で相手を支配しようとすると、たとえ短期的には抑え込めたとしても、長い目で見たら納得が得られず、結局は、お互い幸せから遠のいてしまうからだよ」と、親は説明する。 「けど、昔から世界中で、やらなかったらやられるんだと、大人たちがそう言って、叩くどころか戦争で人殺しをして来たし、実際に今でもそうじゃないか」と、子はヒートアップする。 「そう、叩くのも、戦争も、暴力で相手を支配しようとすることに変わりない。ましてや、人殺しである戦争は、何があっても絶対にいけないんだよ」と、親はそう言いつつ、自らが語った言葉の重みを教わる。 また、このような会話は、子の理解を得るまでに、年単位の時間を要することもあります。けれども、それが何年先であろうとも、子が理解を示した時に、親は「見守ることの大切さ」を改めて教わります。 このように、親子関係において親も子も、お互いからたくさんのことを学びます。師弟関係も同じでしょう。 そして、その先にあるのは、弟子がいずれ、師を追い越すこと。それは、子が親を追い越すことでもあります。 親子と同じく、多くの場合、弟子は師よりも若く、みるみる成長する。そして時代も、弟子の成長を後押ししてくれます。師が育った頃よりも、人類の知恵はさらに蓄積されていて、テクノロジーの進化により、その知恵のアクセスは広く速い。そして、人類のモラルも上昇している。数十年・数百年前に比べると、人権意識が格段に世界に広がったことも、その証であり、またそれも、弟子の成長をさらに後押ししてくれるのです。 師が弟子に、知恵をしっかりと教えたのなら、弟子が師を追い越す日が来ることは、まったくもって自然な流れでしょう。それは「残念なこと」ではなく、「悲しいこと」でもない。むしろ、教えること本来の目的を達成したという「嬉しいこと」であり、また「そうあるべきこと」ではないでしょうか。 その時に、師が、その師弟関係にしがみついてしまっては、余りにもみっともない。師がいつまでも「先生」で、弟子がいつまで経っても「生徒」だとするのならば、その関係性は、それこそ本来の目的を見失っているのではないでしょうか。 むしろ、弟子の旅立ちを、師は「やり切った充実感」と共に、そこにこそ「人類の希望」を見い出し、清々しく送り出すべきではないでしょうか。人類のモラルが上昇曲線を描き続けるのならば、弟子は師を追い越して然るべきなのです。 「今まで私は、出来る限りあなたに教え、そして教わった。それは、もう充分やり切った。だから私たちは、もはや師と弟子ではない。これからの私たちは、共にこの世界をより良くしてゆく仲間だ。」 100年ほど前のドイツに生きた哲学者・ニーチェも、そのように説いたと言われます。 師弟関係から弟子を開放できるのは、また、見たこともないような美しい花を咲かせるのも、師の潔さにかかっている。親子関係もまた、そうではないでしょうか。 同じテーマを読む:家族 【連鎖を断ち切る】
「親の愛情とはこんなに辛く、これ程までに息苦しいものなのか。」 そのように子が感じるのであれば、それはもはや「親の愛情」ではなく、「親の支配」です。そして、それは「親が子を愛しているのは当たり前」とは言えないことを、私たちに知らせているのではないでしょうか。 子にとって、これほど苦しいことがあるでしょうか。親として、これほど悲しいことがあるでしょうか。 そうならない為にも、世の親や、親になることを考えている人に、しっかりと意識してみてもらいたいことが三つあります。 一つ目は、自分の人生に満足すること。もちろん、親としての責任を放棄して、遊び放題することではありません。正面から子と向き合い、多くの笑いや悲しみを共にする。その子自身をしっかりと見つめ、その子に合った育て方を正直に真剣に模索し、目一杯の愛情と時間をそそぐ。子を愛して、そして受け入れる。 このような、親としての責任を全うした上で、自分の人生を自分なりに充実させ、満足することです。そうすれば、子の人生を乗っ取って、生きる必要がない。子が、子自身の人生の主役として生きる。それは、子の幸せにおいて、欠かすことの出来ないことです。 二つ目は、夫婦が仲良くすること。夫婦とは、願わくば人生の最後まで寄り添いあう、かけがえのないパートナーです。子が巣立った後も、人生という名の道は続きます。その長い道のりにおいて、寄り添いあえるパートナーがいなければ、生んで育てた我が子に、その役割をついつい求めてしまうことがあります。 子も、親にそのような大役を期待されるのは、最初は悪い気がしない。むしろ、「自分は認められた」と考え、張り切ることもあるでしょう。しかし、子はやがて、子自身の人生のパートナーと出会うでしょう。そうすると、やはり、子にはそのような大役を務めあげる訳にはいかなくなります。 夫婦二人が一生、互いを思いやり、受け入れ、ゆずりあい、寄り添っていくこと。困難を避けてやり過ごそうとしていると、いつしかそれらのすれ違いが蓄積し、深すぎる溝となってしまいます。そうならないよう、時間をかけて、話し合って、尊重しあって、解決していくこと。そうすれば、子の人生にしがみついて生きる必要がない。 仮に、仮面夫婦や家庭内別居の状態になっている、あるいは離婚を本気で悩むような深刻な状況にあるのなら、「子も同意してくれている」とか、安易に考えてはいけない。子は、親の期待に応えようとする本能を備えています。それに甘えて、ゆくゆくは子の人生にしがみついて生きる結果になることは、許されません。「自分が年老いても、それだけは絶対にしない」と強く心に誓うのは、とても重要ではないでしょうか。 三つ目は、個々人の違いや時代が移り変わっていることを、常に意識し、子にその気持ちをしっかりと伝えること。 「勉強・受験・スポーツ・就職・結婚、何にしても、これはあなたの人生のことだから、最後はあなたが決めればいい。自分の経験上、こういう風にやると、こういう結果になり得る。あなたがそれを理解し、納得した上でその道を進みたいと思い、その選択と責任を全うする覚悟があるのならば、それで良い。けれども、そうでないのであれば、何かを工夫する必要がある。あなたと私は、似ているところもあるが、一人ひとりの個人であり、それぞれの個性を持った人間だ。そして、あなたの生きる時代も、私の生きてきた時代とは違う。時代の移り変わりもあり、むしろ今は私の考えより、あなたの熱意の方がより良い結果を生むことも多いだろう。だから、私がこうだと思っても、あなたは別のことをしてもいい。特に成人前のあなたには、私の経験したことを基に話はするが、最終的には、あなたの人生なのだから、あなたが決めるのだ。」 この移り変わる世界において、親が想像する結果とはまったく違う結果になる可能性。その方が、むしろ高いのかも知れないことに、親は心すべきではないでしょうか。 「親が子を愛しているのは当たり前」ではなく、本当に当たり前なのは、「子が親を愛している」ということではないでしょうか。子の、親に向けられた愛情は、本能的な特性を備えているとすら思えます。特に幼少期の子は、親なしでは物理的に生きていけない存在であることを、本能的に察知しているからかも知れません。そのとてもけな気な愛情を、親は大切に守り、そしてそれに応える責任がある。 親に支配されて育った子は、成人後もその本能にひたすら囚われてしまう傾向があります。成人前に虐待された人は、自らが親になった時に、かつての自分がされたのと同じように、自分の子を虐待してしまう傾向にあることが、あらゆる研究結果において報告されています。そうしてしまわない為にも、子は、自らが親になる場合、虐待の連鎖を断ち切る強い意志をもって挑まなければならないのです。 だからこそ親は、「愛情」と「支配」の分岐点に、心すべきなのです。 前回を読む:愛情と呼ばれる支配(1)【罪悪感を植え付ける】 同じテーマを読む:家族 【罪悪感を植え付ける】
「親が子を愛しているのは当たり前。だから、親の言うことに、子は従うべきだ。」 そのように説明されて育った人は、多いのではないでしょうか。 しかし、親による子への虐待は、世界中で、いつの時代にも起きている。 虐待とは、身体的虐待のみならず、心理的虐待や育児放棄(ネグレクト)も含まれる。世界保健機構(WHO)は、全成人の4人に1人は成人前に身体的虐待を受けており、また、女性の5人に1人、男性の13人に1人は性的虐待を受けていると報告しています。さらに、アメリカ最大の心理学者団体である American Psychological Association(APA)は、心理的虐待やネグレクトは、最も頻繁に起きている虐待であると報告しています。 虐待の大きな問題点の一つは、子本人の「人間としての尊厳」を傷つけ、人生を「生きづらい」と感じさせること。それにより、暴力行為の加害者や被害者になったり、自己破壊行動を繰り返したり、抑うつに陥ったり、アルコールを含む薬物を乱用したりと、つらい困難を抱えてしまう傾向が、より強まる。 家庭内で起こる、親による子への虐待。本来であれば、最も安らぎを提供する、プライバシー空間である「家庭」。その内側で起こることにより、外から見えづらく、データとしてもはっきりとした数値が捉えにくい。しかし、虐待に対する社会的意識が高まるにつれ、その相談件数が急上昇する昨今では、この問題の可視化が進んでいます。過去には見えなかった、あるいは「虐待」とは呼ばれなかった親による言動が、現在では表面に現れはじめています。 特に、骨折・アザ・火傷など、身体的虐待の痕が目に見える場合は、発見され易くなってきていると言えるでしょう。一方で、心理的虐待の場合は、目に見える痕が残らないため、周囲から非常に見えづらい、あるいはまったく見えないという課題を、いまだに抱えています。 例えば、親の望む通りにしなければ、罪悪感を植え付けて、子をコントロールする場合。また、それを無言のプレッシャーにより行使する場合もある。あるいは、「あなたの為に」という恐怖のオブラートに包んでいる場合もある。これら心理的虐待が与える子への被害は、身体的虐待や性的虐待に匹敵すると、APAは結論付けています。 そして、子の心理的混乱をさらに増幅させるのは、それらは「親の愛情」であると親から説明されるからです。子も、最初は「そうなのか」と納得します。と言うよりも、「そうであってほしい」と強く望むことにより、「自分は愛されているのだ」と自分自身を納得させるのかも知れません。ところが、それら親の言動が執拗に繰り返されるにつれ、どうもしっくりこなくなる。「親の愛情とはこんなに辛く、これ程までに息苦しいものなのか。」 子の勉強や受験における、親の強迫的な係わり。あるいは、子の成人後も、生活や子育てへの執拗な介入。さらには、休暇時における、親族との強制的な拘束など。 そのように子が感じるのであれば、それはもはや「親の愛情」ではなく、「親の支配」です。親の要望を、子に強烈に押し付けているのです。子が従わなければ、罪悪感を感じてしまうほどの、執拗なまでの押し付け。子は、その罪悪感から逃れたい一心で、親の支配に必死で耐え、全ての感情をひたすら飲み込む。それなのに、本気で「あなたの為に」と思い込んで、繰り返し押し付け続ける親が、後を絶たない。 「愛情」と呼ばれる「支配」。そして、それは「親が子を愛しているのは当たり前」とは言えないことを、私たちに知らせているのではないでしょうか。 続きを読む:愛情と呼ばれる支配(2)【連鎖を断ち切る】 同じテーマを読む:家族 「親孝行」
この言葉を聞いて、あなたは何を思いますか? 子の立場からは、「やばい、できてない」とか、「本当はもっとするべきだけど、忙しすぎてね」とか、「忙しいなかで、やれることはやってるよ」とか、「同居して介護までしてるんだから、充分すぎる程やってるよ」といった意見が割りと多いのでしょうか。 親の立場からは、「多少はやってもらってるけど、自分が親に尽くした時と比べると、全然足りないね」とか、「充分やってもらってるが、赤ちゃんの時から面倒みてやったし、相続で家や財産を譲るのだから、してもらって当然だ」とか、「まだまだ幸せじゃない、もっとしてもらいたいね」といったところでしょうか。 どうもこの「親孝行」という言葉は、不思議なことに、子を窮屈な立場へ追い込み、親のエゴを引き出すことが、よくある気がします。 それは、どうしてなのでしょうか。 それは、「親孝行」とは、子が親の幸せのためにすることだと、どこからともなく教えられてきたからかも知れません。 幼い頃から、親本人や、親戚のおじさんやおばさん、学校の先生、はたまたテレビドラマなど。やたらと「親孝行しなさい」と強要されたり、親のために尽くしたりすると「親孝行してえらいね」と褒められたり、成功者は「親孝行者だ」と、親が鼻高々に自慢できる子が褒めたたえられたり。はたまた、ようやくとれた久々の休みに、田舎の両親に会いにいくことを優先しなければ、理由はともかくとして、「親不孝者」という恐怖のレッテルを貼られたり。 けれども、「親孝行」とは、本当は、子が成長し、一人の人間として責任ある社会の一員となり、幸せな大人になることではないのでしょうか。 幸せとは、一人ひとりの個人が本人の基準で、決めて感じることです。したがって、子の幸せは、子自身の基準で感じるものであって、親の基準に沿って決められることではありません。親の幸せも、またしかりです。 親には、子を産むと決めた時から、その子をしっかりと愛して育てる責任があります。それは、まぎれもなく親の責任であり、すべきことなのです。将来、親が歳をとった時に、お礼として子に世話をしてもらうために、してあげることではありません。 そして、子が幸せな大人になった時に、今度は自分自身が親の立場になることを、多くの場合は選択します。その場合も、子を産むと決めた時から、親としての責任を引き受けるのです。そして、その子もまた、責任ある社会の一員となり、幸せな大人となることが、「親孝行」なのではないでしょうか。 「親孝行」とは、子が自らの力で立ち、自らを律することができるようになり、そして自ら幸せな大人になるということ。それが、すなわち、親が子育てをする目的の達成だから、「親孝行」なのです。 もし、親のために尽くしてくれることこそが「親孝行」だと考えているのならば、親が子育てをする目的は、「親に尽くしてもらうため」だと言っているようなものです。 「それだと、大変な苦労と犠牲をはらって子育てをしたのに、報いがまるでないじゃないですか」と言う方々もいます。 けれども、それではまるで、子育ての見返りや恩返しを、要求しているようにも聞こえます。 もしも、子育てに見返りがあるとするならば、それは子が育つ過程にあるのでしょう。赤ちゃんから幼少期、少年期から思春期、そして成人するまでの過程に、心の充実を子は親に提供しているのです。それは、可愛さや愛おしさ、安らぎや笑い、時に苛立ち、たまには心配、そして多くの学びにあるのです。 子は、生まれてから成人するまでの間に、親へのすべての恩返しをしているのではないでしょうか。「子は3歳までに一生分の恩返しをする」という言葉もあります。それに気が付くことができるかどうかは、親次第なのです。残念ながら、古今東西、それに気が付けずに子が巣立ってゆくケースが、多いように思われます。 親が、子の幸せのために、子を産み、子を育てるのです。 子が、親の幸せのために、何かをするのではないのです。それだと、あべこべになってしまいます。そして、恐ろしいことに、この様なあべこべは、親からの支配や虐待など、それが世代をまたいで連鎖してしまう、「毒になる家系」につながっていきます。 人が幸せになるのは、大人になったら最終的には、自分の責任です。親は、子が自ら幸せになれるために、「子育てというお手伝い」を、子が成人するまで責任をもって全うするのです。 そして、その後は、親子がお互いとどの様な人間関係を望むのかは、大人の人間同士、自由に、正直に、それぞれに選択するのではないでしょうか。 同じテーマを読む:家族 |
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