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【地区限定であっても】
世界中でみられる、〇〇地区や△△タウンと呼ばれる、それぞれに独特な個性を誇る、色とりどりな街々。世界・国・都市など大きな単位においては、日頃は少数派であるマイノリティの人たちであっても、その独特な街の中だけに限れば、マジョリティであったりすることは、稀ではありません。 ニューヨークにある、ハーレム地区やチャイナタウン。あるいは、新宿二丁目やサンフランシスコ・カストロ地区にある、LGBTQタウン(Lesbian, Gay, Bisexual, Transgender, Queer)など。日頃はマイノリティであっても、そこでは、その独特な街の中だけに限れば、マジョリティであるということ。例えば、アフリカ系アメリカ人の人口比率は、米国全体において12%のマイノリティであるにもかかわらず、ハーレム地区に限定すれば61%のマジョリティであるように。 また、これらと似たような「地区限定」の状態は、「街」のみならず、場合によっては「小さな村」や「家族」といった単位でさえもあり得るでしょう。日頃はマイノリティの人たちが、「村」や「家族」の単位においては、「地区限定マジョリティ」であるということ。それは、世界・国・都市など大きな単位においては、ある人の持つある特徴が少数派であっても、その人の村や家族の中だけに限れば、その同じ特徴が多数派であるということ。 そのような中で、「ここでは、我々のルールに従ってもらう」とか、「イヤなら出ていけ」など。まるで、日頃はマイノリティとして差別をされている、そのうっぷんを晴らすかのように、ややもすれば理不尽な要求を「地区限定マイノリティ」の人たちに押し付け、そして、横暴に振る舞ってしまう。しかし、このような理不尽な除外や拒否によって、人を傷つけてしまうことは、差別になってしまいます。 その独特な街の中であれば、マジョリティとして、そのコミュニティの「常識」を数の力で押し通せてしまうからでしょうか。例え、それが、世界的な広い視野で捉えれば「常識」ではないことであっても。 それは、生まれながらに差別をされ続け、うっ積した悔しさや怒り、そして悲しみが、そうさせることもあるのでしょう。そのような背景があるという事実を、理解しようと努力すること。それも「差別」を考えるうえで、重要ではないでしょうか。 けれども、このままでは、屈辱と悲しみをもたらした差別の本質を、見失うことになりかねない。その「地区」の外側では、自分が身をもって差別に苦しんでいるにもかかわらず、その「地区」の内側では、他者に対して差別をしてしまう矛盾。 それは、例え「地区」という小さな単位の中だけに限られていたとしても、立場が逆転して、自分がマジョリティにさえなってしまえば、手の平を返したように、自分が差別をするということ。この考えは、「自分さえ差別をされなければ、差別は問題ではなく、さらには、自分が自ら差別をする」という、差別そのものを肯定することにもなってしまう。 悲しいことに、差別をされた恨みや憎しみの感情は、その「地区」の外側に足を踏み出した後でも、尾を引いてしまうことがあるでしょう。「あいつら、あそこでは大きな顔をしてやがるけど、こっちに来たら、思い知らせてやる」といった醜い感情が双方に沸き起こり、世の中の差別をさらに増幅させてしまうのではないでしょうか。 しかし、独特な個性を誇る、色とりどりな街々は、私たちに「違い」の素晴らしさに気付かせてくれ、多様性を歓迎することを教えてくれる、特別なポテンシャルを備えています。それは、世界の平和を築くうえで、欠かせないことでしょう。 そう考えたならば、たとえ「地区限定」であったとしても、「差別をする側の人」と「差別をされる側の人」が入れ替わっただけでは、差別はなくならず、世界の平和は築けない。そう気が付けたなら、差別は防げるのではないでしょうか。 続きを読む:差別をなくす(10)【逆差別】 前回を読む:差別をなくす(8)【入れ替わっただけ】 全シリーズ:差別をなくす(1)~(12) [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] 同じテーマを読む:差別 【入れ替わっただけ】
日本に生まれ育ち、日本の外には住んだことがない、ある外国籍マイノリティの方の話です。 「多くの日本人は、礼儀正しく、優しい。それでも私たちは、ずっと差別をされてきた。それはとても、ひどい差別もあった。仲間と共に耐え、慰め合い、貧困に喘ぎ、そして、血がにじむ思いで、超難関国立大学を卒業したものの、私たちを採用してくれる企業は、一社もなかった。自営をする他、生活を支える術がなかった。けれども、私たちを差別する、多くの日本人の気持ちも分かる。」 この話を聞き、そして振り返るたびに、差別と闘い続けたマーティン・ルーサー・キングのことが思い出されます。1960年代のアメリカにおいて、当時の黒人たちの怒りは、多くの白人たちからうける日々の迫害により、限界に達していました。そのような中、キングは、差別をする白人であっても、その本人が100%悪いわけではないと、黒人社会をこう説得したのです。 「差別をする人は、差別をするように教えられてきたのだから。」 前述したマイノリティの方も、そしてキングも、自分に対して差別をする人たちの言動でさえも、一定の理解を示そうと努めている点において、共通するように思われます。差別をする人たちは、親・親族・学校・社会全般から「差別は仕方がないのだ」と、知らず知らずのうちに、教えられてきた経緯があること。そして、たとえ自分自身がその差別の被害者であっても、そのような経緯があるという事実を、理解しようと努力すること。それは「差別」を考えるうえで、重要ではないでしょうか。 けれども、前述したマイノリティの方は、こう続けます。 「私も日本人であったなら、外国人を差別するだろう。」 とても悲しいことに、この一言は、超えてはならない一線を、超えてしまっているのではないでしょうか。 それは、たとえ自分自身が、身をもって差別に苦しんだマイノリティであっても、立場が逆転して、自分がマジョリティにさえなってしまえば、今度は手の平を返したように、自分が差別をするということ。これでは、「差別をする側の人」と「差別をされる側の人」が入れ替わっただけであり、差別そのものは存在したままになってしまいます。 そして、この考えは、「自分さえ差別をされなければ、差別は問題ではなく、さらには、自分が自ら差別をする」という、差別そのものを肯定することにもなってしまう。屈辱と悲しみをもたらした差別の、本質を見失ってはいないでしょうか。 これでは、キングに共通するどころか、その真逆になってしまいます。キングに共通するのであれば、仮に自分がマジョリティであっても「絶対に差別はしない」と、心に強く誓うのではないでしょうか。キングと共に公民権運動を、非暴力抵抗で闘った、多くの心ある白人たちもそうでした。マジョリティとして生まれ、自分自身は差別の対象ではなくとも、「絶対に差別はしない」と心に誓うのみならず、黒人たちと一緒になって、差別と闘い続けたのです。 「私も日本人であったなら、外国人を差別するだろう。」このとても悲しい一言は、むしろ、日本における戦争肯定論者たちによる、「戦争そのものが悪だったわけではなく、敗戦したことが悪だった」とする主張に、相似するように思われます。日本のみならず、これに似たような主張は、軍隊を積極的に支持する多くのアメリカ人からも、聞くことがあります。 「勝ち」さえすれば、戦争における大量殺人は、問題ないのでしょうか。 「マジョリティ」でさえあれば、差別により人を傷つけても、問題ないのでしょうか。 けれども、「差別をする側の人」と「差別をされる側の人」が入れ替わっただけでは、差別はなくなりません。 差別は、そして差別を必ず人殺しの道具として利用する戦争は、あってはならないのです。加害者と被害者が入れ替わっただけでは、問題は解決しません。 入れ替えではなく、防いで、そして、なくすこと。その、とても大切な違いに気が付けたなら、差別をなくすことはできるのではないでしょうか。 続きを読む:差別をなくす(9)【地区限定であっても】 前回を読む:差別をなくす(7)【意図的に造られた】 全シリーズ:差別をなくす(1)~(12) [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] 同じテーマを読む:差別 【意図的に造られた】
雑誌やテレビ、最近ではインターネットなどで、黒人女性モデルの写真や動画、さらにはアニメでも、肌の色をより白く見せようとする。残念ながら、このようなことが1900年代のアメリカでも、現在の日本でも、同じように起こっています。 それは、「白い肌が美しい」とする価値観を、社会に広めて、均一化しようとすること。多くの世界的な人気女優やモデルが白人女性であったり、より肌を白く見せる有色人種の女性たちであったり。それにより、生まれつき黒い肌の女性たちは、幼い頃から日常的にその価値観にさらされ、「自分は美しくないんだ」と、知らず知らずのうちに失望をすり込まれてしまう。 この「白」が望ましく「黒」は望まれないとする「意図的に造られた価値観」は、古くおぞましい白人至上主義の産物です。それよりも遠い昔から伝わる「白は光で、黒は闇」とする象徴が、その差別的な特権主義の道具として、利用されているのかも知れません。そして、またもや日本人を含む、少なからぬアジア人が流され、知ってか知らずか、そこに便乗してしまっている。 幼いうちから「望まれない存在」として育った人は、自己肯定感の欠如に陥りやすいことが、多くの研究結果において報告されています。そして、自己肯定感の欠如は、不安・恐れ・抑うつ・成績不振・アルコールを含む薬物の乱用・暴力や虐待・自殺などにかかわっていることが報告されており、人生において苦難を抱えてしまう、大きな原因の一つになっている。 そのような中で、意図的に造られた価値観によって、幼い頃から失望をすり込まれ続ける。それは、生まれながらの特徴によって、理不尽な除外や拒否を受け、傷つけられること。それは、すなわち差別であり、あってはならないのです。 「そうかも知れないけど、ある黒人の人は、顔の黒塗りコメディも、黒人モデルを白く見せるのも、特に気にしないと言っていた。だから、そんなことは問題にするまでもない。」そう主張する人もいるようです。 けれども、世界には13億人の黒人の人たちが、私たちと同じように、一人ひとりの個人として生きています。そのうちの数名や、仮に数割が「気にしない」と言ったところで、それをもってして、他のすべての黒人の人たちにとっても「問題にするまでもない」と退けるのは、とても乱暴でしょう。 また、例えば、黒人なら黒人に対して。仮に、「自分と同じ人種の人たち」に対してであっても、差別をしても良いわけではないのは、もちろんのこと。加えて、「自分と同じ人種の人たち」に対して「差別をされても仕方がない」と決める権利も、もちろんありません。誰であっても、誰に対してであっても、差別をしてはいけないし、「差別をされても仕方がない」と決める権利はありません。それは、白人なら白人に対して、有色人種ならその同じ有色人種に対して、どの人種であっても違いはありません。 そう考えたならば、たとえ自分自身は気にしなくとも、「自分と同じ人種のすべての人たち」も、その差別を「問題にするまでもない」とか「仕方がない」と、自分にそれを決める権利はありません。「差別をされたくない」と願う権利は、一人ひとりの個人に備わっているからです。 「そうかも知れないが、そんなことまでイチイチ気にしないといけない社会は、大変過ぎる」という人もいるようです。 けれども、「そんなことまで」とは、「傷つける側の人」や「知らずに傷つける側の人になってしまっている人」が、決めて良いことではありません。私たちが「傷つく側の人」であったなら、「それは当然、気にしてもらわないと困る」と想うのではないでしょうか。 そして、差別によって傷つけられる人たちが、現に存在するこの世界において。「差別」にしっかりと向き合うことは、例え「大変」であろうとも、絶対に避けてはならない。傷つけられる人たち一人ひとりを個人として認め、そして、その人に向き合わなければならない。私たちが「傷つく側の人」であったなら、きっとそう願うのではないでしょうか。 誰も差別をされたくはない。私たち一人ひとりが、その共通性に目を向けてみることで、差別をなくすことができるのではないでしょうか。 続きを読む:差別をなくす(8)【入れ替わっただけ】 前回を読む:差別をなくす(6)【意図的でなくても】 全シリーズ:差別をなくす(1)~(12) [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] 同じテーマを読む:差別 【意図的でなくても】
顔を黒塗りにして、人種をジョークだと勘違いするコメディアンが、「差別をするつもりはなかった」と釈明する。残念ながら、似たようなことが1800年代のアメリカでも、現在の日本でも、繰り返し起こっています。 このような事例のみならず、本人が気付かずにしている差別的な言動は、他にも時折り耳にします。けれども、意図的でなければ、これら差別は「仕方がない」のでしょうか。「意図的な差別」と「意図がなかった差別」に、違いはあるのでしょうか。 差別とは、例えどのような理屈をこねようとも「仕方のないこと」ではなく、一点の曇りもなく、あってはならないこと。そして、生まれながらの特徴によって、理不尽に傷けられる人の心に寄り添ってみたならば、その差別的な言動に意図があろうがなかろうが、傷つけてしまうことに違いはないと、気付くのではないでしょうか。そうであるからこそ、「意図的な差別」と「意図がなかった差別」は、どちらもいけないのです。 一方で、「意図的な差別」よりは、「意図がなかった差別」の方が、少なからぬ希望を見出せる余地があるのかも知れません。それは、意図がなかったのであれば、その差別をした人は、それを機に、学ぶ可能性が充分にあるからです。 今回の過ちを認め、謝罪し、「何がなぜいけなかったのか」をしっかりと考え、そして「二度と差別をしない」と心に強く誓う。その「学び」の可能性は、「意図がなかった差別」の方が、より高いのではないでしょうか。 「悪気はなかったのだから、良いじゃないか」と軽く流してしまっては、たとえ今回は意図がなかったのだとしても、次からは「意図的な差別」になってしまう。それは、「学び」を意図的に回避してしまったからです。そして、意図的な差別を続けるほど、「学び」の可能性はより低くなる。 多くの黒人の人たちが「やめてほしい」と世界中で頼んでいるなかで、「差別をするつもりはない、悪気はないのだから」とか「これは差別ではない、ジョークも分からないのか」と開き直り続けるほど、その差別はますます意図的になり、たちまち悪質になってしまいます。 人類の歴史を振り返れば、黒人のみならず、アジア人を含む有色人種のほとんどが、差別をされた暗い過去が見えてきます。悲しいことに、世界にはその残骸があちらこちらに転がっていて、そこから、古くおぞましい悪臭が今でも放たれている。 顔の黒塗りコメディのような、黒人の生まれながらの特徴を極端なほど大袈裟に表し、ともすれば小馬鹿にするような差別表現は、白人至上主義の産物です。その差別的な特権主義に、日本人を含む、少なからぬアジア人が流され、知ってか知らずか、そこに便乗してしまっている。それでは、たとえ意図がなかったとしても、その差別的な特権主義の一端を担うことになってしまいます。 そして「知らなかったから」と釈明しても、生まれながらの特徴によって、理不尽に傷つけられた人はいるのです。その人たちの悲しみや屈辱のうえに、私たちの「知らなかった」が成り立っていることを、忘れてはいけない。ましてや、知ってからも続けてしまえば、それは、もはや「意図的な差別」になり、許されることではありません。 そのような中にありながらも、とても情けないことに、私たちは誰もが一度は、「意図がなかった差別」をしてしまうでしょう。 けれども、肝心なのはその後です。「意図がなかった差別」をしてしまった後、どうするのか。私たちが、その過ちから学ぶことができれば、差別をなくす希望を見出せるのではないでしょうか。 続きを読む:差別をなくす(7)【意図的に造られた】 前回を読む:差別をなくす(5)【選択による特徴】 全シリーズ:差別をなくす(1)~(12) [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] 同じテーマを読む:差別 【選択による特徴】
誰もが、生まれながらに差別をされたいとは思っていません。例え、生まれながらの特徴から自由になることが可能であるとしても、その特徴によって、理不尽に傷つけられてはならないことに、違いはありません。 それでは、「選択による特徴」についてはどうなのでしょう。例えば、自分で選んだ職業や、自らの不摂生がたたった病気など。「誰から強制されたわけでもなく、自分で選んだのだから、差別をされても仕方がない」という人もいるようです。 けれども、自分の選択による特徴なのであれば、除外や拒否を受け、傷つけられたとしても、それを「理不尽」だとは言えないのでしょうか。そこで考えさせられます。「選択による特徴」だからといって、「生まれながらの特徴とは無関係」だと、迷いもなく言い切れることとは、本当のところ、どれ程あるのでしょう。 ある人が、一般的に敬遠されがちな職業に就いたのは、もしかしたら、機能不全な家庭で生まれ育ったことにより、幼少期に受けた虐待が一因となっているのかも知れない。また、ある人が、不摂生がたたった病気になってしまったのは、もしかしたら、孤児だったこともあり、幼少期の生活習慣が関係しているのかも知れない。 どの親の元に生まれてくるのか、どのような環境で育てられるのか、その人には選択できません。けれども、贅沢をいうわけではなく、少なくとも虐待をしない親がいてくれたなら、その人には違った人生があり、そして、違った選択があったのかも知れない。 親による子への虐待は、世界中で、いつの時代にも起きている。本来であれば、最も安らぎを提供する、プライバシー空間である「家庭」。その内側で起こることにより、外から見えづらく、データとしてもはっきりとした数値が捉えにくい。しかし、虐待に対する社会的意識が高まるにつれ、過去には見えなかった、あるいは「虐待」とは呼ばれなかった親による言動が、現在では表面に現れはじめています。 虐待とは、身体的虐待のみならず、心理的虐待や育児放棄(ネグレクト)も含まれる。世界保健機構(WHO)は、全成人の4人に1人は成人前に身体的虐待を受けており、また、女性の5人に1人、男性の13人に1人は性的虐待を受けていると報告しています。さらに、アメリカ最大の心理学者団体である American Psychological Association(APA)は、心理的虐待やネグレクトは、最も頻繁に起きている虐待であると報告しています。 虐待の大きな問題点の一つは、子本人の「人間としての尊厳」を傷つけ、人生を「生きづらい」と感じさせること。それにより、暴力行為の加害者や被害者になったり、自己破壊行動を繰り返したり、抑うつに陥ったり、アルコールを含む薬物を乱用したりと、つらい困難を抱えてしまう傾向が、より強まる。そして、このような苦難の過程において、職業の選択や不摂生にまで、影響が及んでしまうこともあるでしょう。 もちろん、生まれや育った環境がすべての原因だとは、言い切れないことも多いでしょう。もっとも、人が幸せになるのは、大人になったら最終的には、自分の責任です。そう考えたなら、本人の努力不足も一因となっているのかも知れない。 また、同じような苦難の境遇で生まれ育ったにもかかわらず、様々な努力の結果、一般的に人気のある職業に就いた人たちもいるでしょう。あるいは、なかには恵まれた境遇で生まれ育ったにもかかわらず、努力を怠り、道を外れてしまった人たちもいるでしょう。 けれども、それらをもってしても、どこまでが本当に本人が選択できたことで、どこからが選択できなかったことなのか。どこまでが「理不尽」で、どこからが「理不尽ではない」のか。その境界線は、とても繊細な領域の中に存在するのではないでしょうか。 そう考えたならば、「生まれながらの特徴とは無関係」だと言い切ることは、とても難しい。その繊細な難しさを受け入れて、そのまま包み込む優しさを持つことができたなら、たとえ「選択による特徴」であろうとも、除外や拒否を受けたり、傷つけられても良いことにはならない。 そう考えればこそ、すべての人たちに優しさをもって接することで、差別は防げるのではないでしょうか。 続きを読む:差別をなくす(6)【意図的でなくても】 前回を読む:差別をなくす(4)【なぜ いけないのか】 全シリーズ:差別をなくす(1)~(12) [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] 同じテーマを読む:差別 【なぜ いけないのか】
「人に迷惑をかけない」美徳が、いつしか「人から迷惑をかけられたくない」にすり替わり、さらには「迷惑をかける人は良からぬ人だ」となってしまう。けれども、そうであるならば、本人にはどうにも出来ない理由で、「迷惑」と捉えられてしまう人たちはどうなるのでしょう。 例えば、何らかの病気や障害をもって生まれた人。本人になんら選択の余地のない理由で、「迷惑」と捉えられてしまうこともあるでしょう。そして、それは、病気や障害をもって生まれた人たちに対する偏見へと形を変えることもあり、差別を招く危うさをもはらんでいます。 なぜ差別がいけないのか。その本質的な理由は、本人になんら選択の余地のない生まれながらの特徴によって、理不尽な除外や拒否を受け、傷つけられるから。病気や障害のみならず、人種・民族・出身・家庭環境・性別・性的指向などは、生まれながらにして選ぶことができない。 生まれつき体が不自由だった。マイノリティとして、この世に生まれた。戦争状態にある国で、あるいは貧困に苦しむ家庭に、たまたま生まれてしまった。虐待を繰り返す両親の元で、たまたま育ってしまった。生まれて間もなく孤児になった。生まれながらにして、体の性と心の性が一致しない。など。 それらをもってして「迷惑だ」と捉えられたり、偏見を抱かれて、差別を受ける。それは、例えどのような理屈をこねようとも「仕方のないこと」ではなく、あってはならないのです。仮に、世の中には多くのグレーゾーンがあり、善悪でさえも白黒ハッキリし難いのだとしても、差別とは、一点の曇りもなく、あってはならないことなのです。それは、全くもって理不尽な除外や拒否であり、それによって傷つけられるからです。 有難いことに医療の進歩は目覚ましく、今では病気や障害を克服したり、性別を選択することさえも、場合によっては可能な時代になりつつあります。生まれながらの苦しみから、少しづつであっても自由になれる人たちが増えることは、とても素晴らしいことです。 そのような中、「差別をされたくなければ、差別をされている人間が変われば良いだけだ」という人もいるようです。 けれども、生まれながらの特徴を変えることが可能だからと言って、その特徴を持つ人たちに対する差別を、正当化しても良いことにはなりません。例え、その特徴から自由になることが可能であるとしても、生まれながらの特徴によって、理不尽に傷つけられてはならないことに、違いはないからです。 生まれながらの病気や障害は、本人がそう願ってなった訳ではありません。生まれながらにして体の性と心の性が一致しないのも、本人がそう願ってなった訳ではありません。誰もが、生まれながらに差別をされたいとは思っていません。 その切実な気持ちを感じ取ることができるのなら、「生まれながらに同じでなければ、あるいは、生まれながらの特徴を変えなければ、差別をされても仕方がない社会」を許容してはならない。たとえ自分自身が差別の対象ではなくとも、対岸の火事のごとく、見て見ぬふりをしてはならない。 それは、私たちの社会が、私たち一人ひとりの考えの積み重ねにより、形成されているからです。そうであるからこそ、私たち一人ひとりの意識と行動により、差別をなくすことができるのではないでしょうか。 続きを読む:差別をなくす(5)【選択による特徴】 前回を読む:差別をなくす(3)【迷惑って?】 全シリーズ:差別をなくす(1)~(12) [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] 同じテーマを読む:差別 【迷惑って?】
日本の美徳とされる「人に迷惑をかけない」が、いつしか「人から迷惑をかけられたくない」にすり替わってはいないだろうか。私たちの忙しい現代社会において、ややもすれば「迷惑をかける人は良からぬ人だ」となりがちです。そして、それは、差別を招く危うさをはらんでいます。 1991年まで、海外へ旅行することが一般に禁止されていた中国。ようやくそれが徐々に解禁され、待ちに待った憧れの海外旅行を楽しめる人たちが増えています。世界中のどこであれ、人びとが豊かになり自由を得て、広い世の中を自らが体感して見識を広げることは、とても素晴らしいことです。それは、世界の平和を築くうえで、欠かせないことでしょう。 そのような中、喜び勇んで中国から訪れる観光客に、旅先の住民たちが「迷惑」をかけられることもあるでしょう。それは、中国政府が今でも大型グループツアーを主に許可していることもあり、個人旅行をほぼ解禁していないため、大きな団体移動に起因しているのかも知れません。けれども、それによりすべての中国の人たちは迷惑だと示唆するのは偏見になり、すべての中国の人たちは「来ないでほしい」と言うことは差別になります。 より広い視野をもって過去を振り返ってみたならば、中国よりも30年ほど前の日本でも、海外渡航の自由化に、人びとは大いに沸きました。未知の世界へと、心を弾ませながら海外へ出かけ始めた頃は、勝手が分からずに、或いははしゃぎ過ぎて、ずいぶんと旅先の住民たちに「迷惑」をかけたでしょう。 その更に数十年前、多くのアメリカ人が一般的に海外旅行を楽しめるようになり始めた頃、ヨーロッパなどを旅して「迷惑」をかけたでしょう。その更に前の時代のヨーロッパの人たちも、同じくです。 どこの国の人であっても、過去のみならず、今でさえもそのようなことはあるでしょう。迷惑だと目くじらを立てるよりも、私たちの共通性に目を向けてみることで、差別は防げるのではないでしょうか。 そして、旅行者を受け入れる側は、観光によってもたらされる、幅広い経済効果の恩恵を忘れてはいけない。バブル崩壊から30年近くも経済が低迷を続けている日本は、不本意ながらも、世界でも類を見ない借金最大国になってしまいました。人口一人当たりの借金は約900万円で、3位アメリカの約1.5倍。また、国の総生産(GDP)と借金の比率は、世界で唯一200%を超えていて、17位アメリカの2倍を超え、危機的状況にいつ陥っても不思議ではない水準です。 さらには、少子高齢化や教育制度の行き詰まりもあり、成長路線が見出しにくいなか、日本は明確な意図をもって、国策として、海外からの観光客に経済成長の望みを託しつつあります。その成果は如実にあらわれ、日本を訪れる海外からの観光客数は、この15年間で年間500万人から3100万人へと、実に6倍超。街なかで、海外からのお客さんをよく見かけるようになったのは、当然の結果なのです。 その恩恵を受けているのは、旅行業界のみならず、交通や宿泊、飲食やショッピングなど、とても幅広い。更には、それが日本の税収にも繋がり、私たちが日頃よりお世話になっている公共サービスの財源にもなっています。 このように、たとえ自分自身が観光業を営んでいなくとも、自分の生活の基盤が、巡り巡って何らかの形で、海外から訪れる観光客に支えられている。そう意識したならば、あるべき気持ちは「迷惑」ではなく、むしろ「感謝」ではないでしょうか。 そう意識することで、差別は防げるのではないでしょうか。 続きを読む:差別をなくす(4)【なぜ いけないのか】 前回を読む:差別をなくす(2)【外に出てみる】 全シリーズ:差別をなくす(1)~(12) [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] 同じテーマを読む:差別 【外に出てみる】
大切なことは、一人ひとりを個人として認め、そして、その人にしっかりと向き合うこと。そうすれば、乱暴にひとくくりにしてしまうことが、とても視野が狭く、浅はかで、差別的になりがちだと気が付くでしょう。 そう、気が付くこと。そのためには、心躍るほど広い世界や、鮮やかなまでに多種多様な文化を、自ら体験することがとても重要です。自分の所属するコミュニティの居心地がどれほど良かったとしても、そこに閉じこもっていると、差別についての教育や認識も、多様性を受け入れる姿勢も、「違い」の素晴らしさを体感することも、日常的に不足してしまいがちです。 また、例えば、外国や異文化から来た人が自分の職場やコミュニティにいて、日常的に接していたとしても、それはあくまで「自分の領域」に来てくれている他者と接しているのであって、その他者がマイノリティとして、マジョリティである「自分の常識」に合わせてくれていることを忘れてはいけない。 そうではなく自分が海外に出てみて、縁もゆかりもない土地に行ってみて、そこに根ざした生活をしてみる。それは「他者の領域」において、「他者の常識」の中で生活をしてみるということ。 そこには、今まで自分が生きてきた世界がひっくり返って見えるような、そんな景色すらあるかも知れません。文化や言葉の壁にぶつかり、そこでもがき苦しみ、そして考えを深めることにより、本当の意味でマイノリティの屈辱やマジョリティの卑怯を、初めて知ることがあります。広い世界に踏み出してみて、初めて自分自身や自国の現状が、多角的に見えてくることがあります。 「差別」を本当の意味において理解するには、先ずは自分自身がマイノリティになってみること。その気になれば、それは多くの人に出来ることなのです。 そうすることで、今まで「見えていた」ものが、実は「見えている気になっていた」だけだったことに気が付くこともあるでしょう。そして、今まで「見えなかった」ものが、見えるようになる。それが「人としての幅を広げる」ということではないでしょうか。 幅を広げれば、人は「違い」を受け入れる寛容さを持ちやすくなります。「自分とは考えや行動パターンが違うけど、それも良いのではないか」と考えやすくなります。 そう、皆が皆、同じような考えや行動を押し付けられたなら、それこそ旧式ロボットのようであり、ムラ社会の一員のようであり、軍国主義における抑圧された国民のようでもある。「同じ」から逸脱することは許されず、逸脱した者は排除される。そのような「同じ」は、結果的には分断を招き、そして分断は、差別や戦争を招くことさえある。「村八分」と呼ばれる差別や、人殺しに協力しない人たちを「非国民」と罵った差別なども、そうであるように。 なぜ「同じ」が分断を招くのでしょう。それは、「自分らしい生き方をしたい」と多くの人が望むからです。だからこそ、人は自由であるほど、一人ひとりの幸せのためには、少なからぬ不自由をも受容するのかも知れません。それは、多様性は一致をもたらし、同一性は分断をもたらすということでもあります。 違いを受け入れる姿勢を持つことにより、差別を招かず、日本の美徳とされる「和を大切にする心」を得る。多様な背景の人たちを迎え入れて、一人ひとりのより良い明日へ向けて、皆で話し合い、協力し合う、本物の「和」。差別のように、一部の人たちを犠牲に、あるいは排他して、集団を大切にする「悪しき和」ではなく。 人としての幅を広げ、より広い視野を持つことができたなら、マイノリティの気持ちを思いやり、違いの素晴らしさに気付き、多様性を歓迎し、そして、差別をなくすことはできるのではないでしょうか。そのために、外に出てみませんか。 続きを読む:差別をなくす(3)【迷惑って?】 前回を読む:差別をなくす(1)【常識って?】 全シリーズ:差別をなくす(1)~(12) [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] 同じテーマを読む:差別 【常識って?】
差別的な発言を濁すつもりで、語られる言葉があります。 「これは差別ではなく区別ですが…」。 例えば、 「これは差別ではなく区別ですが、最近の中国人や韓国人はマナーがなっていないので、もう来ないでほしい。」 「これは差別ではなく区別ですが、外国人や移民が増えると治安が悪くなるので、どこか他のところへ行ってほしい。」 「これは差別ではなく区別ですが、同性愛者が周りにいては、子どもの教育上よろしくないので、その人たちはその人たちだけで集まってほしい。」 など。 先ず、この言葉が示しているのは、発言者が、自分を中心として差別を捉えているということ。けれども本当は、差別発言かどうかを判断するのは、発言者本人よりも、それを聞いた他者、特にその発言により差別されたと感じた人たちなのです。 それでは、なぜ多くの差別発言者は、自分を中心として差別を捉えてしまうのでしょう。それは、差別発言者の多くはマジョリティ(多数派)が「常識」を決め、マイノリティ(少数派)はそれに従うしかないと、意識的かどうかは別にして、そう思い込んでいるからではないでしょうか。 それは、世界的な広い視野で捉えれば「常識」ではないことでも、その人の所属するコミュニティにおいては、それを「常識」だとしてマジョリティが数の力で押し通せてしまうから。そして、幼い頃からずっとそうだったから、知らず知らずのうちに身に沁みついてしまっているのかも知れません。 けれども本当は、マジョリティであることは、正義を証明された訳でもなく、正しい訳でもない。誤っていることもままある。その時点において、マイノリティを単純に数で上回っていることに過ぎない。 もちろん、マナーのなっていない中国や韓国の人たちもいるでしょう。けれども、それをもってして、すべての中国や韓国の人たちのマナーがなっていないと示唆することは、乱暴な偏見でしょう。また、それにより、すべての中国や韓国の人たちは「来ないでほしい」と言うことは、差別になります。 中国には13億人、韓国には5千万人の個人が、私たちと同じように、一人ひとりの個人として生きています。その人たちを、あたかもすべて把握しているが如くの発言は、明らかに乱暴でしょう。それは、日本人から見たら76億人もいる「外国人」というくくりにしても、世界中で2億4千万人もいる「移民」というくくりにしても、そして推定7億人はいるとされる「LGBTQ (Lesbian, Gay, Bisexual, Transgender, Queer)」というくくりにしても同じです。 それは、ある人が旅行程度にしか日本を訪れたことがなく、生涯に知り合った日本人は僅かなのに、たまたま知り合った日本人たちのマナーがなっていなかったと、その人がその人の所属するコミュニティの「常識」でそう感じたからといって、「最近の日本人はマナーがなっていない」と1億2千万人もの日本人をすべて把握しているが如くの発言をするのは、明らかに乱暴なのと同じです。 冷静になってよく考えてみると、マナーのなっていない人は、周りを見渡せば結構いるのではないでしょうか。治安を悪くしそうな人だって、教育上よろしくなさそうな大人だって、それなりにいるのではないでしょうか。日本であっても、アメリカであっても、エジプトであっても、北朝鮮であろうとも、当然にいるでしょう。 大切なことは、どこの国・どの地域・どの人種・どの性別・どの性的指向・どのような健康状態の人であろうが、一人ひとりを個人として認め、そして、その人にしっかりと向き合うことではないでしょうか。 そうすれば、「中国人」・「韓国人」・「外国人」・「移民」・「LGBTQ」といった単位で、乱暴にひとくくりにしてしまうことが、とても視野が狭く、浅はかで、差別的になりがちだと気が付くでしょう。 続きを読む:差別をなくす(2)【外に出てみる】 全シリーズ:差別をなくす(1)~(12) [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] 同じテーマを読む:差別 |
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