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【意図的でなくても】
顔を黒塗りにして、人種をジョークだと勘違いするコメディアンが、「差別をするつもりはなかった」と釈明する。残念ながら、似たようなことが1800年代のアメリカでも、現在の日本でも、繰り返し起こっています。 このような事例のみならず、本人が気付かずにしている差別的な言動は、他にも時折り耳にします。けれども、意図的でなければ、これら差別は「仕方がない」のでしょうか。「意図的な差別」と「意図がなかった差別」に、違いはあるのでしょうか。 差別とは、例えどのような理屈をこねようとも「仕方のないこと」ではなく、一点の曇りもなく、あってはならないこと。そして、生まれながらの特徴によって、理不尽に傷けられる人の心に寄り添ってみたならば、その差別的な言動に意図があろうがなかろうが、傷つけてしまうことに違いはないと、気付くのではないでしょうか。そうであるからこそ、「意図的な差別」と「意図がなかった差別」は、どちらもいけないのです。 一方で、「意図的な差別」よりは、「意図がなかった差別」の方が、少なからぬ希望を見出せる余地があるのかも知れません。それは、意図がなかったのであれば、その差別をした人は、それを機に、学ぶ可能性が充分にあるからです。 今回の過ちを認め、謝罪し、「何がなぜいけなかったのか」をしっかりと考え、そして「二度と差別をしない」と心に強く誓う。その「学び」の可能性は、「意図がなかった差別」の方が、より高いのではないでしょうか。 「悪気はなかったのだから、良いじゃないか」と軽く流してしまっては、たとえ今回は意図がなかったのだとしても、次からは「意図的な差別」になってしまう。それは、「学び」を意図的に回避してしまったからです。そして、意図的な差別を続けるほど、「学び」の可能性はより低くなる。 多くの黒人の人たちが「やめてほしい」と世界中で頼んでいるなかで、「差別をするつもりはない、悪気はないのだから」とか「これは差別ではない、ジョークも分からないのか」と開き直り続けるほど、その差別はますます意図的になり、たちまち悪質になってしまいます。 人類の歴史を振り返れば、黒人のみならず、アジア人を含む有色人種のほとんどが、差別をされた暗い過去が見えてきます。悲しいことに、世界にはその残骸があちらこちらに転がっていて、そこから、古くおぞましい悪臭が今でも放たれている。 顔の黒塗りコメディのような、黒人の生まれながらの特徴を極端なほど大袈裟に表し、ともすれば小馬鹿にするような差別表現は、白人至上主義の産物です。その差別的な特権主義に、日本人を含む、少なからぬアジア人が流され、知ってか知らずか、そこに便乗してしまっている。それでは、たとえ意図がなかったとしても、その差別的な特権主義の一端を担うことになってしまいます。 そして「知らなかったから」と釈明しても、生まれながらの特徴によって、理不尽に傷つけられた人はいるのです。その人たちの悲しみや屈辱のうえに、私たちの「知らなかった」が成り立っていることを、忘れてはいけない。ましてや、知ってからも続けてしまえば、それは、もはや「意図的な差別」になり、許されることではありません。 そのような中にありながらも、とても情けないことに、私たちは誰もが一度は、「意図がなかった差別」をしてしまうでしょう。 けれども、肝心なのはその後です。「意図がなかった差別」をしてしまった後、どうするのか。私たちが、その過ちから学ぶことができれば、差別をなくす希望を見出せるのではないでしょうか。 続きを読む:差別をなくす(7)【意図的に造られた】 前回を読む:差別をなくす(5)【選択による特徴】 全シリーズ:差別をなくす(1)~(12) [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] 同じテーマを読む:差別 Comments are closed.
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