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1960年代のアメリカは、人口の約85%が白人で構成される国でした。黒人は10%、その他が5%というその社会は、白人が圧倒的マジョリティ(多数派)だったのです。
当時は、人種差別が特に卑劣でした。子供を教育する現場である学校でさえも、人種で分けられ、レストラン・バス・トイレなど、多くの施設が分離されていました。また、黒人だからという理由だけで暴行を受けたり、最悪の場合は殺害されたり。それらの暴力行為が、処罰されることなく過ぎ去っていくのも日常でした。 「区別されているけど、平等だ」と多くの白人たちは主張しましたが、その利用できる施設の違いを見れば、それが平等とは程遠いものであることは一目瞭然でした。「平等なので入れ替わりましょう」とは、白人たちは誰も言わなかったのです。 差別と闘い、幾度と不当な逮捕をされ、刑務所での生活も余儀なくされたマーティン・ルーサー・キングは、黒人社会が白人たちへ対する憎悪に溺れることを懸念しました。当時の黒人社会の怒りは、多くの白人たちからうける日々の迫害により、限界に達していました。そのような中、キングは、差別をする白人であっても、その本人が100%悪いわけではないと、黒人社会をこう説得したのです。 「差別をする人は、差別をするように教えられてきたのだから。」 マジョリティであることは、正義を証明された訳でもなく、正しい訳でもない。誤っていることもままある。その時点において、マイノリティ(少数派)を単純に数で上回っていることに過ぎない。 当時は、自分たちのことを疑うことがなかったマジョリティでさえも、「その考えは誤っていた」と、時が経って気が付いた実例が、歴史には溢れるほどあります。1960年代のアメリカも、またその一つでしょう。 しかし、当時のマイノリティの踏みにじられた気持ちは、忘れ去ることはできません。自分たちが不当に扱われるのは公正ではないと知りながらも、マジョリティの卑怯な考えを押し付けられ、圧倒的な数の力でねじ伏せられてしまう。この悔しさは、はかり知れません。 マジョリティは、主に二つの方法により、マイノリティの気持ちを察するようになれます。ひとつは、自ら体験すること。例えば、縁もゆかりもない海外などに出て生活をしてみる。文化や言葉の壁にぶつかり、そこでもがき苦しみ、そして考えを深めることにより、本当の意味でマイノリティの屈辱やマジョリティの卑怯を、初めて知ることがあります。 そして、一時帰国した際に、懐かしさや良き想い出と共に、ほっとしたりしますが、なぜ、戻ってくるとほっとするのか。なぜ、心地よいのか。その気持ちそのものが、マジョリティに所属する安心感ではないでしょうか。なぜ、安心なのか。それは、「普通こうだよね」とか「常識だよね」などを、マジョリティが決められるからではないでしょうか。それが、本当は「普通」でも「常識」でもないとしても、マジョリティが数の力で押し通せるから安心なのかも知れません。 そして、マイノリティは、常にその「安心感」の反対側で犠牲になっているのです。 もうひとつの方法は、想像すること。これは、キングと共に非暴力抵抗活動を闘った、多くの心ある白人たちもそうでした。自ら体験することはなくとも、黒人たちの屈辱を、自分の身に置き換えて想像することにより、マイノリティの気持ちを察することができたのです。 現在のアメリカは、人口の約63%が白人、16%がヒスパニック、12%が黒人、その他が9%です。1960年代より多角化はしたものの、依然として白人がマジョリティを占めている社会です。 そして、当時とは比べられないほど、差別に対する社会的意識が整ってきてはいるものの、これまた依然として、マジョリティの数の力でねじ伏せられる屈辱を、マイノリティは避けては通れません。それらは、白人警官による黒人たちへの暴行や殺害、またそのような犯罪が見過ごされるといった衝撃的な事件のみではありません。むしろ日常の、ごくありふれた一幕での出来事などが大半です。 現在の日本は、人口の約99%が沖縄県以外に在住しています。第2次世界大戦において、連合軍に上陸されて、日本で唯一、激しい地上戦の被害を沖縄はうけました。正規軍人よりも、住民の死者の方が遥かに多かった沖縄に、日本は戦後からずっと米軍基地を押し付けているのです。これがどれほど屈辱的で悔しいことか、はかり知れません。 人口1%の県に、74%の在日米軍基地を押し付け続けること。 悲しいことに戦争兵器の性能は、技術革新の大きな波と共に、著しく進歩してしまいました。その結果、米軍はもはや過去のように、沖縄の立地にこだわっている訳ではなく、代替地があれば、基地の移動は現実的に可能だと言われています。そして、「お願いだから基地の負担を軽減してほしい」と、多くの沖縄県民は切に願っています。その切実な想いを、それこそスーパーマジョリティである大多数の日本国民は、圧倒的な数の力でねじ伏せ続けていることを、忘れてはいけません。 自分の住む近くにはきてもらいたくない、いわゆる「自分ファースト」だからでしょうか。その結果、スーパーマイノリティである沖縄とその県民が、犠牲になっても仕方がないと主張し続けていることになるのです。原発や保育園、児童施設なども、この「自分ファースト」という面において、似ているのではないでしょうか。 どうか、体験と想像により、マイノリティの気持ちを察する社会が更に開けることを、切に願ってやみません。 同じテーマを読む:多様性/インクルーシブ Comments are closed.
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