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【結果オーライはモロい】
「何も知らない子どもたちに、差別の心を持たない純粋な子どもに、かえって差別を教えるようなもの。」 この理論には、大いに反論の余地があります。先ず、「何も知らなければ、差別はしない」という前提でなければ、この理論は成り立ちません。 もちろん、何も知らなかったし、差別も起こらなかったケースはあるでしょう。偶然に、そうなることはある。 けれども、それでは「結果オーライ」になってしまいます。「結果が良かったので、いいじゃないか」と思いたい気持ちはやまやまですが、そこには、「なぜ良い結果になったのか、その理由が分かっていない」モロさがついて回ります。 そうすると、次回、また同じ状況になった場合。また「良い結果」を導き出せるのか、どうか、分かりません。良い結果になることを、偶然に任せてしまうモロさともいえるでしょう。 「差別」という、とても大きな問題を捉えたならば。そして何よりも、差別により苦しめられている人たちの気持ちに寄り添ったならば、差別をなくすことを、偶然に任せる訳にはいきません。 なぜ差別がいけないのか。その本質的な理由は、本人になんら選択の余地のない生まれながらの特徴によって、理不尽な除外や拒否を受け、傷つけられるから。 病気・障害・人種・民族・出身・家庭環境・性別・性的指向などは、生まれながらにして選ぶことができない。 生まれつき体が不自由だった。マイノリティとして、この世に生まれた。 貧困に苦しむ家庭に、たまたま生まれてしまった。虐待を繰り返す両親の元で、たまたま育ってしまった。 生まれて間もなく孤児になった。生まれながらにして、体の性と心の性が一致しない。など。 それらをもってして「迷惑だ」と捉えられたり、偏見を抱かれて、差別を受ける。それは、例えどのような理屈をこねようとも「仕方のないこと」ではなく、あってはならないのです。 そのような差別をなくすことは、私たち一人ひとりの責任です。 「寝た子を起こさない」と言っては「語らない方が良い」、「触れない方が無難だ」と。ややもすれば目を背けようとしては、差別をなくすことを偶然に任せてしまっては、その責任を果たしているとはいえません。 「何も知らなければ、差別はしない」という前提は、余りにもモロい。「何も知らない」ということは、「無知」ということでもあるからです。 むしろ、「何も知らなければ、差別は繰り返されてしまう」という危険性を認識し、子どもたちと「なぜ差別がいけないのか」をテーマに話し合うこと。 それが、私たち一人ひとりの責任なのです。 続きを読む:寝た子を起こす(3)【学びは余計なこと?】 前回を読む:寝た子を起こす(1)【差別を教えるようなもの?】 全シリーズ:寝た子を起こす(1)~(5) [1] [2] [3] [4] [5] 同じテーマを読む:差別 Comments are closed.
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