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【文化や常識?】
約2500年前の古代ギリシャに生きた歴史家ヘロドトスは、現在のインド付近で暮らしていたカラティア部族の驚くべき文化を記録しています。それによると、カラティア部族の人たちは、亡くなった父親の遺体を食べる習慣があったそうです。 その話を聞いた古代ギリシャの人たちは、「まさか食べるなんて、人として間違ってる!!」と、現代の私たちがするであろうほど、驚愕しました。 けれども今度は、古代ギリシャの人たちから、火葬・土葬について話を聞いたカラティア部族の人たちは、「まさか、火あぶりにして捨てるなんて、人として間違ってる!!」と、これまた驚愕したそうです。 確かに、よく考えてみると、どちらにも一理あるでしょう。亡くなった人の遺体を「食べる」ことと、「火あぶりにして捨てる」こと。現代の私たちにとっては、火葬・土葬に馴染みがあるというだけであって、そのバイアスを払いのけ、広い視野をもって捉えたならば、単に「文化の違い」であるといえるのではないでしょうか。 この「文化の違い」を具体的に説明すると、文化相対主義(Cultural Relativism)にたどり着きます。それは「広い視野をもって他者の文化を受け入れ、たとえ自己の文化と違うからといって、片方が正しくて、もう片方が間違っているとすることではない」という基本的な出発地点ともいえる思想のことです。一見馴染みのない他者の文化や行動でさえも、理解を示すという観点から、素晴らしい思想であるといえるでしょう。 古代ギリシャ人や現代の私たちにとって、亡くなった人の遺体を火葬・土葬することは「文化」であり「常識」といえます。 同じように、カラティア部族の人たちにとって、亡くなった父親の遺体を食べることは「文化」であり「常識」なのです。 そして「行動」が、「文化」や「常識」になるのには、多くの場合、相応の理由があるからでしょう。例えば、カラティア部族の場合は、遺体を食べるのは「父親が亡くなった後には、残された家族の体の一部になって生きてもらいたい」とする、スピリチュアルな理由かも知れません。 一方で、古代ギリシャ人や現代の私たちの場合は、遺体を火葬・土葬するのは「人間は土から生まれ、最後は土に還る」というスピリチュアルな理由や、「疫病などを防ぐ」という衛生学的な理由があるでしょう。 そう考えてみたならば、カラティアも古代ギリシャも現代の私たちも、亡くなった故人への敬愛からの行動が文化に繋がったという点において、共通するのではないでしょうか。 それは単純に、理由があるから人びとはある行動を続ける。そして、多数派の人たちが続けるから、その「行動」が「文化」や「常識」になるということに過ぎない。また、時代の移り変わりにより、既に当初の理由はなくなってはいるものの、それが「代々そうしてきたから」という新たな理由により、継続される文化も珍しくはありません。 けれども、ここでモラルについて考えを進めるのならば、文化だからといって、常識だからといって、そして、相応の理由があるからといって、それが、モラルに照らして正しい訳ではないということ。 それでは、「モラル」とはいったい何なのでしょう。「文化」や「常識」ではないのであれば、それは何なのでしょう。 続きを読む:モラルって、何なの?(2)【モラルの境界線】 全シリーズ:モラルって、何なの?(1)~(8) [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] 同じテーマを読む:倫理観 Comments are closed.
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